2018年

9月

25日

再開

公演が終わるとまとまった文章を書く必要が出てくる。

そういうわけで、また、ここ、再開する。

蕪村の句やオシャレについての論考の続きをつぐ必要。

読書日記を書きたい欲。

自分の展望についての整理。

書いていく。

2018年

4月

19日

俳句と短歌【定期更新】

0311

北比良の白峰そびえ波声に小路でひとり詩のこと想う

0312

北比良の白峰や背には波の声

0313

桜から灰降る街を酔い歩き

0314

ツバメおり陽がしずむ幣舞橋や

0315

満員の小田急線で目に入る他人のスマートフォンの恋文

0316

どん底にやさしく乾いた眼差しよこれが愛だよカウリスマキよ

0318

菜の花が見える車窓に春を知る

0319

彼岸に祖父母いた家で本探す 

0320

花を待つ雨を聴きつつ夏想う

0321

電車とまる風にあおられなごり雪

0322

冷雨かな寝つつ起きつつ魂が追いつくを待つ長旅のあと

0323

やる気なき日に本棚を仮設する知の道しるべ気を立て直す

0324

北向きの窓に漏れ入る春の日よ

0325

向こう岸自転車たちが走りゆく日曜の午後三月おわり

0326

日が暮れて川面さざめく橋げたに列車轟く絶えることなく

0327

桜の下ちょこんとオオイヌノフグリ

0328

遠いものとつながるために撮る女箱庭にして好きに書く男

0329

旅前に増えたハコがなくなって旅出たハコで見る下コント

0330

桜散る田舎寺そこは海石榴市ただの広場に古代エキゾチズム

0331

春の名は雑草ノオトめくり知る

0401

ゲド想う畦のカラスノエンドウに

0402

オギョウつむ日向ぼっこの病み上がり

0403

すみれ咲く疎水のコンクリートの隙

0404

草の名を知り虫の名も知りたくてあの鳥に食われる魚の名も

0405

坂道のむこう山の中にぽつり桜一木が咲く満開に

0406

十八の春に住みしアパートに十八年して見舞い訪ねる

0407

マカオ行く若人へタンポポあげた

0408

いつもそば歩いてみてる学校の校門またぐ選挙の日かな

0409

食卓に父とふたり面映ゆく母いない朝にりんごの味

0410

太陽を見おろす鴈や観覧車

0411

階段に家人の炊いた筍や

0412

雨上がり春の日浴びるキャミソール

0413

先人の言葉をうつす春の宵

0414

濃淡の緑が萌える京の山

0415

自転車で目に入ってくるタンポポ歩くと目に入ってくるハコベ

0416

若葉ふく銀杏の根に枯れタンポポ

0417

すずめの子加茂の河原で逃避行

0418

花隈の名を知るひばりか高架下

0419

行く春や若葉に透けて息を呑む

0420

並木道あの花はなにハナミズキ

0421

山々の緑の波よ藤の青

吉田山みどりの海に浮かぶ藤

黄緑の吉田の山に浮かぶ藤

0422

春の寿歌なりやまるとさんかく

0423

あゝ四月たみの博さを歩くあるく

0424

春眠はゆめやうつつやとけて夢

0425

宵闇に眠りを醒ます躑躅の香

0426

夕日さし黄緑かがやく加茂河原

0427

あおがえる言の葉たぐる千里かな

0428

石楠花や藤のうしろに舟の声

0429

居酒屋を探して歩く五月かな

0430

祈るように薬を飲む四月おわり

0501

若夏の朝に洗われ人を待つ

0502

五月雨に心重たし低気圧

 

2018年

4月

13日

分類と分析

ひきつづき、蕪村の句について、いろいろと。

まず、好きな句。

 

★好きな句

 鮒ずしや彦根が城に雲かゝる

 さみだれや大河を前に家二軒

 白蓮を切らんとぞおもふ僧のさま

 動く葉もなくておそろし夏木立

 さくら一木春に背けるけはひかな

 みの虫の古巣に添ふて梅二輪

 春風に阿闍梨の笠の匂かな

 おもひ出て酢つくる僧よ秋の風

 水仙や寒き都のこゝかしこ

 秋風にちるや卒塔婆の鉋屑

 昼舟に狂女のせたり春の水

 野路の梅白くも赤くもあらぬ哉

 さみだれや名もなき川のおそろしき

 水仙に狐あそぶや宵月夜

 

理由や理屈を抜きに、自分にひっかかった句たち。こんなのが好き。

つづいて、分類をこころみる。

言葉の使い方を、より細かく考えていくための、準備作業。

 

 

<風景・遠景を詠んだもの>

大きなスケールのなかに的確な対象を設置して、その対比を詠む。

結果、風景も対象も、際立たせているような句たち。

まず、漢詩系。わびさび系。ある種、王道。

 

 しのゝめや雲見えなくて蓼の雨

 さみだれや大河を前に家二軒

 おぼろ月大河をのぼる御舟かな

 朧月蛙に濁る水やそら

 後の月鴫たつあとの水の中

 秋風にちるや卒塔婆の鉋屑

 寒月や門なき寺の天高し

 

ややかわいい系。こちらの方がより高度というかうまさを感じる。

 

 

 春雨や蛙の腹はまだぬれず

 菜の花や鯨もよらず海暮ぬ

 鮒ずしや彦根が城に雲かゝる

 長き夜や通夜の連歌のこぼれ月

 寒月や門をたゝけば沓

 うぐひすの啼や師走の羅生門

 

遠景を遠景のまま捉えた句。語のチョイスが肝なのか。

 

 春雨やいさよふ月の海半(なかば)

 なの花や昼一しきり海の音

 池と川とひとつになりぬ春の雨

 月に遠くおぼゆる藤の色香哉

 春雨の中を流るゝ大河かな

 さみだれや名もなき川のおそろしき

 いな妻や秋つしまねのかゝり舟

 いな妻や佐渡なつかしき舟便り

 笛の音に波もより来る須磨の秋

 水仙や寒き都のこゝかしこ

 三日月も罠にかゝりて枯野哉

 凩や広野にどうと吹起る

 秋の空きのふや鶴を放ちたる

 

静けさを詠んだもの。

 

 風吹ぬ夜はもの凄き柳かな

 動く葉もなくておそろし夏木立

 名月や夜は人住ぬ峰の茶屋

 冬こだち月に隣をわすれたり

 としひとつ積るや雪の小町寺

 短夜の夜の間に咲るぼたん哉

 賊舟をよせぬ御舟や夏の月

 鹿鳴くや宵の雨暁の月

 卯の花の夕べにも似よしかの声

 

年中行事。時間のこと。

 

 角文字のいざ月もよし牛祭

 海のなき京おそろしや鰒汁

 目前をむかしに見する時雨哉

 其むかし鎌倉の海に鰒やなき

 

中景くらいをうたったもの。

 

 つつじ野やあらぬ所に麦畠

 鶯のたまたま啼や花の山

 三井寺や日は午にせまる若楓

 路たえて香にせまり咲いばらかな

 野路の梅白くも赤くもあらぬ哉

 足あとのなき田わびしや落し水

 地下りに暮行野辺の薄かな

 山畑やけぶりのうへのそば畠

 

<近い対象をうたったもの――近景>

植物が多い。(他の対象物は他に分類しているせいもあるが)

 

 梅ちりてさびしく成しやなぎ哉

 たんぽゝのわすれ花あり路の霜

 葉がくれの枕さがせよ瓜ばたけ

 窓の燈の梢にのぼる若葉哉

 初雪の底を叩けば竹の月

 秋雨や水底の草を踏わたる

 さくら一木春に背けるけはひかな

 女郎花二もと折ぬ今朝の秋

 やどり木の目を覚したる若葉かな

 浅間山けぶりの中の若葉かな

 こがらしや岩に裂行水の声

 うつくしや野分の後のとうがらし

 

 

<私基点で捉える情景・感情>

近景(中景)の歌が多いが私目線であること。

故に叙情に傾く。

 

 居りたる舟を上がればすみれ哉 

 綿つみやたばこの花を見て休む

 秋雨や水底の草を踏わたる

 歩きあるき物おもふ春のゆくへかな

 宿かせと刀投出す雪吹哉

 牡丹有寺ゆき過しうらみ哉

 やぶ入りの宿は狂女の隣かな

 病起て鬼をむちうつ今朝の秋

 常燈の油尊き夜長かな

 鱸釣て後めたさよ浪の月

 洟たれて独碁をうつ夜寒かな

 古池に草履沈みてみぞれ哉

 闇の夜に終る暦の表紙かな

 屋根ふきの落葉を踏や閨のうえへ

 闇の夜に頭巾を落すうき身哉

 秋の暮辻の地蔵に油さす

 葱買て枯木の中を帰りけり

 看病の耳に更ゆくおどりかな

 

貧しさ・生活を詠んだもの。

 

 小鼠のちゝよと啼や夜半の秋

 皿を踏鼠の音のさむさ哉

 我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

 雪沓をはかんとすれば鼠ゆく

 糞ひとつ鼠のこぼすふすま哉

 らうそくの涙氷るや夜の鶴

 白炭の骨にひゞくや後夜の鐘

 

<登場人物・動物が出てくるもの>

人物は、キャラが濃いものたちが、多い。

すると、句にも滑稽さや、悲哀が出てくる。

(最後の数句に人間ではないものもある)

 

 春をしむ人や榎にかくれけり

 薬盗む女やは有おぼろ月

 秋たつや何におどろく陰陽師

 鯨売市に刀を鼓(なら)しけり

 白蓮を切らんとぞおもふ僧のさま

 月おぼろ高野の坊の夜食時

 昼舟に狂女のせたり春の水

 春風に阿闍梨の笠の匂かな

 蓼の穂を真壺に蔵(かく)す法師かな

 秋の夜や古き書読む南良法師

 おもひ出て酢つくる僧よ秋の風

 盗人の首領歌よむけふの月

 子を寝せて出て行く闇や鉢たゝき

 住吉の雪にぬかづく遊女かな

 寒月に木を割る寺の男かな

 終に夜を家路に帰る鉢たゝき

 故さとの坐頭に逢ふや角力取

 笠とれて面目なきかゞしかな

 雲の峰に肘する酒呑童子かな

 錦する野にことこととかゞしかな

 大仏や傘ほどの手向菊

 秋の暮辻の地蔵に油さす

 

やや抽象的な人シリーズ。

 

 貧乏な儒者訪ひ来ぬる冬至哉

 追風に薄刈とる翁かな

 鶯に終日遠し畑の人

 生海鼠にも鍼こゝろむる書生哉

 水鳥や巨椋の船に木綿売

 旅人の鼻まだ寒し初ざくら

 ゆく年の瀬田を廻るや金飛脚

 念ごろな飛脚過ぎゆく深雪かな

 

小動物ものも、おもしろ系が多い。

(逆に、鳥はかわいい系がおおくなる)

 

 蛇を追う鱒のおもひや春の水

 日は日くれよ夜は夜明ヶよ啼蛙

 河童(かわたろ)の恋する宿や夏の月

 春雨や蛙の腹はまだぬれず

 飯盗む狐追うつ麦の秋

 巫女(かんなぎ)に狐恋する夜寒かな

 みの虫の古巣に添ふて梅二輪

 戸をたゝく狸と秋をおしみけり

 

 

鳥シリーズ。

 

 一羽来て寝る鳥は何梅の月

 鶯のたまたま啼や花の山

 飛魚となる子育るつばめかな

 鶯や茨くぐりて高う飛ぶ

 水鳥やてうちんひとつ城を出る

 後の月鴫たつあとの水の中

 初しもや煩ふ鶴を遠く見る

 うぐひすの啼や師走の羅生門

 

2018年

4月

11日

シンプルに

自分の作った句でまともだなーと思うものをあげてみる。

 

ツバメおり陽がしずむ幣舞橋や

桜の下ちょこんとオオイヌノフグリ

すみれ咲く疎水のコンクリートの隙

 

あるシンプルな発見がある。

これらの句は、風景のなかに、あるそれを受信する何かを、置いている。

ツバメ、オオイヌノフグリ、すみれ。

モノとモノとの関係が書かれている。

すると、焦点が、しっかり合う。

「風景と私」しか関係がない、つまり、ざっくりと風景しか書いていない句は、いまいち、掴みどころがない。例えば。

 

花を待つ雨を聴きつつ夏想う

桜から灰降る街を酔い歩き

北向きの窓に漏れ入る春の日よ

 

透き通っている、と見ることもできるが、やっぱり、ぼんやりと、情緒しか浮かんでこない。

掴みどころがない、というのは、先の日記に書いた、身体がない、ということだ。

2018年

4月

07日

近々書きたいこと

俳句に関しては、蕪村がよい。ぱらぱらとめくって読んで。

何がよいのか、自分の句とどう違うのか考える。

 

蕪村の句は、身体が、ある。

そして、だから、身体を通した、感情があらわれている。

滑稽だったり、哀しかったり、ごりっとした物と滑稽さ、物を相手にした、ペーソスがある。

 

風景が、物として、あらわれている。

だから、身体があらわれてくる。

そして、その身体をとおして、

感情があらわれてくる。

(なるほど!)

 

私は、どちらかというと、風景に、自分(の身体)を消していくような句の読み方をしているのかもしれない。それ自体が良い悪いでなく、自分のほしい言葉を獲得していくために、もっと、身体(が言葉にあらわれること)にこだわっていくべし、ということだ。

自分の言葉に、身体を、あらわしていく、試行錯誤をしていくこと。

 

蕪村の句に、なぜ、身体を感じるのか。

たぶん、対象と自分とのあいだの、彼我のあいだの、距離を、詠んでいるからだ。

距離とは、つまり、関係だ。

関係とは、つまり、距離だ。

(なるほど。)

 

彼我の距離を捉える、とは、つまり、彼我の「別」を知ることなのかもしれない。

彼は彼で、我は我で、「別」なのである。

そこに距離がうまれ、関係がうまれ、感情が生まれる。

「物」であることとは、つまり(ワタシとは)「別」ということ、なんだ。

「別」がつくれたら、つまり、身体(ワタシ)、感情は、(ある程度)自動で生じる、ということなのかもしれない。

俳句の、17文字のなかで出来る(すべき)ことって、それくらいなのかもしれない。

 

こう、考えたうえで、彼我がくっついてもつれあっているような句、そして言葉、

それをあえてを書けるならば、それは、それで、展開のさせようがあるような気もする。

でも、それしかできない(ことを知らぬままそれしかやらない)ことは不足であると、

いまの私は思っている、ということだ。

 

対象との距離、とは、数年前、どくんご旅中に、執拗にこの日記に展開していた(そしてそれをいま読み返してもなるほどと思う)ことだ。

その、次が、すこし、見えた、ような気がする。

 

そんなことを、考えていたら、オシャレについて考えたくなった。

というか、それがなんなのか、急に、はっとした。

オシャレって、感覚的にはわかるものがあっても、うまく言語化してこれずにいた。

でも、すこし、わかった気がする。

 

オシャレって、

自分(の身体)から、

果てしなく遠いモノ、自分の身体ではないモノ、つまり他者的なナニカ、を、着衣する、

ことなのではいないか。

 

その、仕草、のことではないか。

その、関係、ではないか。

(その、関係、を、取っている、様態、のことではないか。)

 

着衣するとは、つまり、

身体は、身体のまま、

モノはモノのまま、

両者を、接着させる、

その行為、やり方、ではないか。

 

これまで、私は、とりわけ、演出としての私は、

(自分の)身体のことばかり、

そして、その身体が、世界にどう働きかけるか、

自分(の身体)発で、自分と、世界のことを、

考えていたのかもしれない。

 

モノも、言葉も、

自分の身体の延長にあるモノ(つまり自分の身体)として、捉えていた、

のかもしれない。

この日記で展開してきた思考、

沸騰も、シラけた目も、背後空間を背負うことも、

自分の身体を基点に、世界を拡張すること、展開させること、

そういう行為として捉えていた。

 

それは、それで、とても必要な取り組みだ。

 

でも、それだけでは、足りないのだ。

それだけでは、身体は、世界は、仕上がらないのだ。

 

なにか、そういう、自分発の、自分から世界に働きかけるロジックとは超越した、

遠い遠い、あるいは、果てしのない、ワケのワカラヌ、

モノ、物体が、

自分の体をアラワスためには、必要なのだ。

仕上げの、隠し味のような、他なる物体が、世界の完成(あるいは世界を完成させない)のためには、必要なのだ。

 

そうでないと、世界は、言葉は、身体は、表現は、息苦しくなる。狭くなる。

 

たとえば、私の俳句(言葉)のために、必要なものは、

私とは違う、しかし、私を呼び覚さずにはいない、

他なる物体=言葉。

それを、他なるまま、私の言葉・身体の連なりに、どう、接着させるか。着衣させるか。

それを考える。

逆に、それが、成功しているものとしての、例を集めて、眺めてみる。

 

①③

それは、外に目をむける、ということだけではない。

アウタースペースと同時にインナースペースにも目を向けていくことだ。

 

言葉は、身体を、裏切る。

身体は、言葉を、裏切る。

言葉は、言葉を、裏切る。

身体は、身体を、裏切る。

 

それぞれのナカにも、ソトにも、他者・モノ・別、は、ある。

思うようにならぬ、言葉。思うようにならぬ、身体。

それを発見していくことだ。

 

演出をするにあたって、

舞台に立つ身体の拡張、つまり、背後空間の構成、

また、そのために必要な、基点としての身体の、構成。

言葉の持ち方、吐き方、投げかけ方。

(昨年の日記からの思考もひろうと、)

役者を、生贄にしていくのか、司祭にしていくのか、を、考えること。

そのバランス、塩梅。

これらの方法を探っていくことは、ひきつづき、継続して、やっていくべきことだ。

これはこれで、いま、また、あのときから展開されたある蓄積を、身体に感じる。

それを言葉にして、整理して、その次を、思考していくべきだ。

 

でも、それだけでは足りないのだ。

それがわかった。これは、とても、大きい。

 

たとえば、私は、クルミドコーヒーは、とてもよい場所だけど、すこし、息苦しい。

それが、なんでか、わかった。あそこは、とても、緻密に、ひとつひとつ、自分たちの思考や身体を展開させて、あの空間を作っている。やさしいし、まじめだし、もてなして、そして、向き合ってくれる。そこにも、世界がある。

でも、あそこには、あの人たちの、身体しか、ないのではないか。

あそこには、大切なもの、しか、ないのではないか。

しかし、私は、それだけでは、足りないのだ。

なにか、ヌケ、が、吹きぬけるナニカ、が、自分の世界には、必要なのだ。

そういう、他なるモノを、ワタシは、求めているのだ。

 

クルミドコーヒーについてもやもや考えていたとき、それに対して、

仙台の、モーツァルトというカフェのことが、たびたび頭に浮かんでいた。

あそこは、ヌケている。ような、気がする。ということだ。

よくわからぬものが空間にまぎれこみ、そのよくわからなさが、そこにあるもに、風をあてているのだ。

他なるモノが、他なるモノのまま、ひとつの空間に、着衣、というか、重ね合わされている。

ということではないか。

 

余談。ピンク地底人2号さんがチラシの打合せをしていたときの雑談で「笑の内閣ほどオシャレなことをやっている団体はない」と言っていたことも思い出した。おもしろいなーと思いながら、その言わんとしていることが、なんとなく引っかかるものがありながら、寄せきれずにいた。そして、内閣よりもよっぽど、オシャレ、とか、センスがよい、という感想や印象を持たれているであろうピンク地底人については、「うちは地底人の地上にあこがれるうんぬん……」と、ある種、自分の身体の延長で話していた。そのときはおもしろいなーと思いつつどういうことか引き寄せきれずにいた感覚、この視座からならば、了解していける、ような気がした。これに関しては気がしただけで、そんなにしつこく考えていくことでもないが。

 

まとめ。

近々書きたい、と言いながら、けっこう書いてしまった。

もう少し、私をまったく知らない他人が読んでも、わかるような文章にしたいと思っていた。

 

そうすることで私の思考も私の身体から切り離される。

切り離されて言葉として眺めかえすことではじめて次なる思考が生まれる。

次なる思考が生まれることではじめて次なる取り組みが生まれるのだ。

(なるほど!)

 

と思っていたのだけど、結構書いてしまった。書けてよかった。

まだまだ対象とワタシはねちねちに粘着してもつれあっているが、

それでも書いて、少しずつ切り離して、考えていくのだ。

 

他なるモノからの、身体のひきたて。世界のひきたて。

そのために、他なるモノの選択、召喚、その方法を、同時に、考える。

 

ではまた。

2018年

3月

27日

俳句・短歌

リハビリを兼ねて、なるべく毎日、俳句か短歌を作っている。

日々の記録や、妄想や、回想などをごちゃ混ぜて。

語順や言葉使いなどをかれこれ考えながら形式に言葉を納める作業。

楽しいし勉強になる。

 

0311

北比良の白峰そびえ波声に

 小路でひとり詩のこと想う

0312 

北比良の白峰や背には波の声

0313

桜から灰降る街を酔い歩き

0314

ツバメおり陽がしずむ幣舞橋や

0315

満員の小田急線で目に入る

 他人のスマートフォンの恋文

0316

どん底にやさしく乾いた眼差しよ

 これが愛だよカウリスマキよ

0318

菜の花が見える車窓に春を知る

0319

彼岸に祖父母いた家で本探す

0320

花を待つ雨を聴きつつ夏想う

0321

電車とまる風にあおられなごり雪

0322

冷雨かな寝つつ起きつつ魂が

 追いつくを待つ長旅のあと

0323

やる気なき日に本棚を仮設する

 知の道しるべ気を立て直す

0324

北向きの窓に漏れ入る春の日よ

0325

向こう岸自転車たちが走りゆく

 日曜の午後三月おわり

0326

春日暮れ川面さざめく橋脚に

 列車轟く絶えることなく

 

2週間、続けてみて、これはこれでとても有効だなーと認めつつ、これだけでは不足であることも感じてきている。これはこれで続けつつ、この次の段を踏む、日々の取り組みがほしいなーと思っている。もうすこし字数を要する形式詩ってないかなあ。

また、句自体も、ただの素描でなく、おもしろく詠みたい、という気持ちが出てくる。

 

これはこれでよい。追求していこう。

2018年

1月

16日

書くこと

思考を深めていくために、それを分節化させていくために、襞を細やかにしていくために、なるべく毎日、少なくとも週2~3回は、まとまった文章を書いた方がいい。

例えば、この日記のようなもの。

 

それとは別に、フィクションも、毎日、書いたほうがいい。

上演するための芝居を書くのとは、別に、ということ。

上演するための芝居を書くには、それなりの下準備がいる。

そうではなくて、遊戯として、素振りのようなものとして、

毎日、虚構を、言葉で書かないと、これはこれで、やっぱりだめなのだ。

例えば、連歌のような。

例えば、ほぼ百字小説のような。

例えば、ヒゲの大陸横断鉄道のような。

例えば、過去の旅日記を、いま書くとか、そういうのでもいいのかもしれない。

 

芝居を書くための下準備も、いくらかは、併行してすすめる術を考えた方がいい。

短編集では、それをやっている。

それを、長編構想・短編構想を、もう少し突っ込んで、同時に進めていくような、作業時間の配分ができないかということ。

 

そういう自分のルーティンをマネージメントしていくこと。

あらためて、考える。

2018年

1月

16日

久しぶりに

ここを再開しようかな。

言葉による自己構築が必要なのだろう。

2016年

12月

05日

春よ行くな、

引越したのである。本当に色々な方のご厚誼により。感謝。途方もなく。

実に三年ぶりに住所不定でなくなった。一人暮らしは6年半ぶりくらいだ。奇妙な共同生活ではあるのだけど。どうしてもそういう人生なのかもしれない。他人任せに過ぎるのかもしれない。が、もう決めたのであって、もう始まったのであって、うまく廻るように、生活を整えて、やっていくしかない。腹をくくるしかない。そしてこんなにいい家はまたとない。やっていこう。よくしていこう。

 

ということとタイトルはまったく関係なく。時間が出来たら書こうと思っていた瀬戸内に行く直前に観た芝居の感想である。悪い芝居プロデュース「春よ行くな、」。2013年にやった芝居のキャストを9割変えての再演。私の演劇初期の先輩姉さん、奥田ワレタの主演。

 

初演も観ている。とても良かった。あれから三年たつけれどあれだけ強度のある芝居はそうそうお目にかかっていない。その年は観劇豊作だった。ハイバイ「て」、岡崎藝術座「飲めない人のためのブラックコーヒー」。まあそれはいいとして。「春よ行くな」は、ベビー・ピー「青い紙魚」の上演直後で、兎にも角にも持てるすべてを出し尽くして、ひりひりする世界スケールの作品を作った気でいたが、この芝居を観て、愕然と、全く足元にも及んでいない…と思ったのであった。それくらい密度のある舞台だった。あれくらいのもんは作らなあかんという指標にいまだになっている作品、ともいえる。

 

で、再演を観た。自分にとって大事な気づきが沢山あったので感想を書く。もう2ヶ月半経っているが。

面白かったのである。初演が克明に刻まれているためそれを追認する作業も含まれていたことは否めない。救いようのない話である。役者は皆達者で、演出の意図をよく理解して、テキストと適切な距離を保ちながら、戯曲の構造をよく浮き立たせ、結果、物語の(主人公の)救いのなさを浮き立たせていた。だから最後には(わかっていたけど)また見事に持っていかれた。演出も、役者も、スタッフワークも、皆、自立していて、自立した悲劇(作品)であった。結果、より救いがなく感じた。

 

翻って初演について考える。演出も役者も冷静ではなく滾っていた。そこに物凄いうねりと深みがあった。再演が救いようのなさを召還する儀式とするなら、初演は救いようのなさに捧げられる供犠だった。再演の役者は司祭であり、初演の役者は生贄であった。だから、初演は、救いがあったように思う。救いのなさにとことん捧げきることによって、とことん救いようをなくすことによって、救いがあった。

これは、再演を観ての非常に重要な、発見だった。

生贄といってもただ為されるがままではない。自らで儀式を執り行いながら祭儀を盛り上げ自分を捧げていく。その技術と贄の両立に、それが集団レベルで行われひとつの作品(供犠)に結実していることに、悪い芝居の集団性(技術と精神の両立)に、まことに畏れいったのだった。

 

初演は観客も供儀の血を浴び役者が死んでいく場に立ち会った。

再演は供儀物語を役者である司祭たちが召還し、その物語(供儀)を、客は、鑑賞した。

どちらも結構なことに思う。

 

見る阿呆、踊る阿呆、執行者、司祭、シャーマン、生贄…

どの位相を選択するかにより生じる劇(祭儀)効果も異なる。

私は演出としてどの位相を役者に要求するのか。

そのためにどういった技術を必要とするのか。

 

一昨年の日記群を読み返しながら、意外と、あの頃、そういったことをよく考えていたのだなーと思いつつ、その思考をそれから少しでも進めたかと言われれば、経験は確かに積み現場レベルでは随分演出の作法はスキルアップした思いつつ、言葉による展開をこそいま必用だと思い至った中で、この「春よ行くな、」の感想はどうしても書いておかねばと思い、薄れた記憶をたぐりつつ書き記した次第。

 

この日記はそういう場所。

進めてまいる。

2016年

11月

28日

逃げ恥

久しぶりに連続ドラマなるものを見ている。

「逃げるは恥だが役に立つ」

 

もう、おもしろい。

たまたま実家帰ってたときに第二話から最新話までを見てしまい、京都帰ったら見られんやんけとつぶやいたら最新話はネットで無料配信されているよとの情報をいただき、その後も見ている。

もう、おもしろい。

脚本が本当に上手いな凄いなーとか、キャスティングめちゃくちゃはまってるなーとか、細かい演出が気が利いているなーとか、思ってみてたけど、今週は、もうそういうことじゃなくなくなった。

情緒を完全にコントロールされてしまいました。

それゆえか見たあと記憶で振り返って展開が思い出せないところがあり見直した。

 

見直してみて気づいたことたち。ネタバレだらけだよ。

思い出せなかったのは「二度目のキス」にどうやって至ったか。

 

まず、これは一度目から思っていたのだけど、

旅の終わりの「一度目のキス」のあと空気が気まずくなって、その気まずさを解消するために「一月前に過ぎた誕生日」のエピソードが出てくる。迷った末にお金をあげるという一見最悪に思える答えを出しながら、それが結果、話を前に進める(気まずさを解消する)エピソードになっている。

 

で、結局なんで「二度目のキス」をしたのか見たところ。

見返すと、なんのことない、後輩が実は帰国子女だったというゆりちゃん家での話から何事にも感謝と敬意が必要という話になり、帰宅して貰ったワインを飲みながら感謝と敬意を伝えてあらためて近頃にあった想いを伝えようとしたところ言葉にならずに…というものだった。台詞とか展開は特になかったと言っていい。つまり、そこに至るまでに、必要なものは準備されていて、なんてことない話題から、至るべくして到る。

そのために、この回で重要な役割を果たしているのが、月の満ち欠け。二人のあいだに重なる、言葉にならない思いの満ち欠け、時間の積み重なりが、たびたび挟まる月の経過とともに描かれる。

その場面に到るまでの時間の重なりを丁寧かつ簡潔に積み重ねていくことで、本当の重要なシーンも、余計な説明とか感傷抜きに、シンプルにそこに到る。うまい。うまい。

 

それで、これも一度目から、思ったんだけど、

その後のみくりちゃんの「いいですよ、ひらまささんとなら、そういうことしても」という台詞、これ、早すぎだろーと思ってしまうのだけど、故に、ドラマの展開としては、やっぱり上手い。一個の終着と次のスタートがひとつのシーンの中にある。つい、ここは一晩経過させちゃいたくなるところだけど、それをしない。

飛躍のさせ方。

時間を的確に重ねることで説明の台詞や面倒なやりとりを極力消す。

順列に描きすぎない。突拍子もない飛躍を混ぜることで、展開に緩急をつける。

ロマンチックラブコメとは、こういうことか。もう、うまい。うまい。うまい。

情緒を完全にコントロールされてしまいました。すごいなー。

 

勉強になります。精進します。

2016年

11月

25日

文字数

下記の日記で、1588字。

原稿用紙4枚。

なるほど。

2016年

11月

25日

読書日記

「罪と罰」読了。

ドストエフスキー読み返し月間にしようと思う。

数えてみると(悪霊以外は)10年ぶりらしい。

 

読み進めていて、思ったより、普通の小説なんだな、これ、と思った。シンプルなプロットが隙なく組み立てられている。その筋立てから顕れてくる人物はさすがのドス節だけど、それも他の小説と比べると程よく抑制されている。サスペンス、対立構造が明確だからそう感じるのかもしれない。

 

また、野田の贋作を演劇初期にビデオ擦り切れるほど見て(死語)いて、再演は生で観て、衛星放送の録画DVDもやはり沢山みたくちで、初読のときは贋作をガイドラインにして小説を掴んでいたことにはっきりと気づく。小説の物量・グルーヴに確かにおお!とはなったのだけど、読み返すに、(当たり前だけど)表現として(魅せ所は)まったく別物じゃないか!と理解。

贋作、前半はかなり忠実だけど、後半部はかなり違う。そこに翻案の上手さもある。が、両者を分かつポイントもある。とりわけ小説のソーニャへの告白から実際に「十字路に出て…」をラスコが行為するまでそしてラストで本当の「回復」が訪れるまでの直線でなさ。贋作は、ポルフィーリィとの最終対決を前に持ってきて、ソーニャへの告白とスヴィ対ドゥーニャを併行に描くことで芝居のクライマックスを作りそのままラスト(回復)へ直結させているのに対し、小説は、かなり、ぐだぐだする。逆にそこまでは小説もかなりスリリング(これも初読の印象と違った)。そして、このぐだぐだが、ミソなのだと、感じる。ラスコーリニコフという「人間」を(エンタメに拠らず)最後まで追いかけている、と。

 

原作に忠実な部分に関しても、大事なところの違いがもうひとつ。人間と人間がガチに対峙するとき、ひとりの人間が狂ってしまうときの、物理時間では計れない(永遠とも感じる)時間、が、ドス小説の真骨頂で、小説は、その「時間」によって、まさに人が動き、物語が回転している。

が、贋作は、それが演劇(時間芸術)のダイナミズムの中に非常に的確に回収されて(しまって)いる。制限時間が決まっている中で、狂う、みたいなことだろうか。

これは初読のときも感じていたことで、今回で、ようやく言語化された。

しかし、そして、その「時間」を演劇であらわす(演劇時間のなかで構成する)ことも、きっと、できるのだ、とも思った。どくんごのどいのさんがそういうシーンを「白い時間」と言っていたように思う。

 

もうひとつ。これ、はっきり、ヒューマニズム(ヒューマニティの喪失と回復の)小説だったんだな。裏表紙の解説にも書いてあるけど、初読のときは全くそう受け取ってなかった。描かれるヒューマンの幅たるやさすがの腕っ節だが、スヴィドリガイロフ筆頭の奇奇怪怪たる人物たちも、最終主人公の「回復」に回収されるような小説構造になっている。そして、これ以降、彼はこういう構造の物語を作らない。悪霊はヒューマニズムが壮絶にしくじりまくる話だし、白痴・カラマーゾフはヒューマニズム志向は強くあるが小説全体がそこに回収されないような結構になっている。興味深い。

罪罰に関しては、二人の母の存在・厚みがミソだと思う。二人の存在は、主人公(の回復ための物語)に役割的にとても奉仕している。この母性(そして父性)、悪霊では徹底して掛け違う。ワルワーラの子がスタヴローギンで、ステパンの子がピョートルで、ワルワーラとステパンのロマンスも掛け違い…ザッツ・笑劇化する。もうひとつ、ラズミーヒンにあたる人物がこれ以降の小説で現れない(ように見える)ことも重要だ。

 

これらが本当にそうなのか、何故そうなのか、他作を読み進めながら、引き続き詳細に見ていきたいと思う。前後の中短編も読んだほうがよいのだろうな。未成年も未読なので今回は読まねばなるまい。

 

次は白痴に参ります。

(少し寄り道をしてから)

2016年

11月

23日

再開

日記、再開してみようと思います。

 

今日は宣言だけ。

2014年

12月

29日

今年読んだ本

今年はいつもより沢山読書ができた。それは大変よろしかった。

みんな1年でどれくらい本を読むのだろう。
僕は読書は好きだけど、創作中はほとんど読めない。それ以外の時期は大抵常時読んでるけど、読んでるうちに考え事してしまったり、読むのもかなり遅めなので、そんな進まない。

そんな中、今年は、40冊くらい。
どれもかなり良書ばかりで、とてもよい読書ができた。

■□■□

4月まで
スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」、ブラッドベリ「火星年代記」、高村薫「黄金を抱いて飛べ」、クラーク「幼年期の終わり」、エドモンド・ハミルトンン「透明惑星危機一髪」
5月
中島敦「木乃伊・文字禍・李陵」、村上重良「日本史の中の天皇」
6月
深沢七郎「楢山節考」、田宮虎彦「絵本・霧の中・落城・末期の水」、佐藤亜紀「ミノタウロス」
7月
町田康「屈辱ポンチ」、ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」、チェーホフ「シベリアの旅」、ソルジェニーツィン「イワン・デニソーヴィチの一日」、ハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの・101号線の決闘・不死鳥・眠れ、安らかに・少年と犬」
8月
高野秀行「巨流アマゾンを遡れ」、藤原作弥「満州、小国民の戦記」、山口啓二「鎖国と開国」、林茂雄「イスラムのシルクロード」
9月
ディケンズ「二都物語」、スタンダール「パルムの僧院」、バルザック「ツールの司祭・赤い宿」
10月
ジュネ「泥棒日記」、馳星周「不夜城」、谷亮治「モテるまちづくり」、川上弘美「蛇を踏む・消える」、織田作之助「夫婦善哉・アドバルーン」、町田康「夫婦茶碗・人間の屑」、色川武大「狂人日記」、金子光晴「どくろ杯」
11月
夏目漱石「三四郎」「それから」、外山恒一「人民の敵1号・2号」、長田弘「叙情の変革」
12月
クンデラ「存在の耐えられない軽さ」、古谷田奈月「ジュンのための6つの小曲」、折口信夫「春日若宮御祭の研究」、真武真喜子ほか「高松次郎を読む」、中上健次「枯木灘」、絓秀実「1968年」

■□■□

自分内ベストは、ジュネ「泥棒日記」。
次点が、田宮虎彦、クラーク。

この本たちは、なんというか、「ああ、これ、この世界にあってよかった」という余韻が残ってる感じ。
後半の読書日記を書いていこう。

2014年

12月

28日

最近のこと

いかん。またすっかり時間が空いてしまった。

近況の報告をいくつか。

本の出版に関わらせもらいました。

谷亮治著「モテるまちづくり-まちづくりに疲れた人へ」

という本です。

私はその本の「解説」を書きました。もちろん人生初です。

フェイスブックに詳しい内容説明や購入方法など書いてます。

 友人の石川卓磨くん(@ishitakuma )とtwitter上で美術や演劇をめぐってお喋りをしています。結構久しぶりにこういう話をしている。

読み返すとピンボケで恥ずかしいけど、対話の中でピントがあっていくことを願いつつ。

途中参加・突っ込み、歓迎です。こちら

 

ほかにもいろいろしておりますが、この日記で書くようなことを他所で書いてたのが、この二つ。

そしてベビー・ピーの来年以降の準備を着々と。またトップページなどでお知らせします。

 

とりあえず近況報告。

喋り場がやや分散してしまってるのだけど、この場はこの場で大切にしていきたい所存。

2014年

11月

13日

覚え書き

日程があいてしまった。

頼まれ仕事をしこしことしたり、来年以降の準備をしこしこと進めたり。

旅は残すところ宮崎と鹿児島のみ。あと4ステージ。

びっくりだ。


読書は金子光晴「どくろ杯」、夏目漱石「三四郎」「それから」読んだ。

続いて、クンデラ「存在の耐えられない軽さ」を読み始めてみている。


大仕事が片付いたので、この日記に向き合うモードというのを、復活させていきたい。

明日から宮崎入り。

2014年

10月

29日

旅連歌

いよいよ九州はいった。明日は熊本入り。

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

真下の空に 四月が笑う

山月に 棚引く雲や 虎の声

南洋赴く 汽船の煙

カロリンの ヤップから来た 女の子

家族を想い 北へ旅立つ

砂浜に 干された海鼠よ 白昼夢

丸木舟乗り ウォレス線跨ぐ

擦れ違う あの娘の名前は ゴンドワナ

気圏の上層 また逢いましょう

そう言って 東に消えた 小惑星

微かに聴こえた 白亜の断崖

島々の 数だけ地史を 足下に

空駆け抜ける 瀬戸の大橋

台風に テントで蟋蟀 雨宿り

廃材天国 開演間近

松山に 向かうトラック 11

すれ違う雲 すれ違う遍路

天高く 旅も肥ゆる 城の下

昼は秋の香 夜は冬の香

山越えて 山また山よ 土佐街道

幾つの細道 此処にも人住む

鶏が 志士の住居 知らせたり

日曜市の 雑踏の隙

蛇の道や 大歩危小歩危 蟹歩き

吉野渓流 四国大動脈

暮れなずむ うだつの町に 靄降りて

まれびと歓待 柔らかな瞳

そそり立つ 山の上にも 人家あり

夜は一番 近い星かも

際際に 隘路を自動車 煙草谷

上から下へ 雨乞い踊り

渓谷を だいだら法師が 渡り行く

Abby Roadの 彼らのように

鉄塔は 山のあなたの 空とおく

風車連なる 佐田の岬よ

吹きすさぶ 波濤に消えた 夏帽子

豊後水道 八幡の翳

霜月に 平家の落人 魚返す

頭蓋の平野 阿蘇に降る雪

16 コメント

2014年

10月

24日

無題

この日記で、私がしたいのは、「じっくり考える」ということなのだと思う。

繰り返し、ある問題について、眺め、言葉を与え、輪郭をあらわにしていく。

使える道具にしていく。そういう術を、身の構えを、作っていく。

じっくり考える。失敗してもいい。

私の書くものが、私の身体が、私の演劇が、

じっくり考えた結果として、滲み出てくる、作られるもの、たらんために。

沸騰を、どこに向けて、どの瞬間に、どういう温度で、どういう色で、どういう持続度で、放つか。

じっくり考える。整える。じっくり工房。

じっくり向き合う場所。じっくりに向き合う場所。

2014年

10月

22日

読書日記

ジュネ「泥棒日記」のあと、金子光晴に行くつもりだったが、ふと寄り道したくなって馳星周「不夜城」を読み、ついで川上弘美「蛇を踏む・消える」、織田作之助「夫婦善哉・アドバルーン」、町田康「夫婦茶碗・人間の屑」、色川武大「狂人日記」を読んだ。そしてやっと今日から金子光晴「どくろ杯」に突入した。忘れないうちに感想雑記。

 

馳星周「不夜城」

箸休めとして非常にそのとき丁度よい小説だった。情報量が多く、ある特定の一箇所、新宿をぐるぐるしながら、台湾・中国の裏社会の様子を立ち上げていく。サスペンスに富み、歴史劇としての要素もある。主要なシーンが電話による会話で展開される、というのも、意外と使えるのかもしれん。

高村薫「李歐」、宮崎学「血族」などと同じ、中国・アジアの裏社会もの。歴史・ドキュメントとして面白い。「青い紙魚」も片足突っ込んでいた世界。しかし物語としては、どれも、まだまだ掘れる余地がある気がする。どんな物語展開かしらん。背景とか立場の微妙な違い、力関係、駆け引きなどを、丁寧に織り込んでいかないといけないから、演劇向きではないのだけど、何かやり方がないものか。三好十郎のようなテキスト構成だったら或いは可能か。「斬られの仙太」アジア近代史版。ううむ。取り組んでみたい。

 

川上弘美「蛇を踏む・消える」

これは結構びっくりした。初めての川上弘美。こういう物語書く人だと全く思ってなかった。

これ、おもしろいなー。こういう演劇、ありそうでないよな。でもできるよな。ベビー・ピー、自分の書くテキストと、重なるわけではないが、親和性はある。こういう方向に持っていくことは出来るよな。そうか、こんな方法があったか、という感じ。勿論ものにするのは大変だろが。松田の持ってる雰囲気や身体感、本人の書くテキストからも、注意深くノイズを削いでいけば、こういう不可思議が取り出せるのではないかしら。

マジックリアリズム、といっていいのかもしれない。淡々とした不思議な間のリアリズムに、ふいとマジカルな要素が闖入してくる。マジカルとリアリズムが同居したまま物語が進んでいく。淡々としている前半の方が好きで、後半の怒涛は、もう少し、別の展開があるような、でも、こうなってしまうところに、この人の作家性があるような気がして、また別の作品も追ってみたいと思った。こういうテンポのまま、マルケスが書くような、巨大な歴史・神話に接続する、でもあくまで語りはあっけらかん淡々と間の抜けてる、物語が、できんかな、できそな。語りが、ロマン主義に流れていかない、情緒に倒れない、という作法がどこかにある。

 

織田作之助「夫婦善哉・アドバルーン」

初めての織田作。夫婦善哉、かなりよかった。語り調子、微細で具体な生活描写、大阪・・・。バルザックで書いた「リアリズムへの翻訳」ということ。バルザックの場合は確かに、あるドラマツルギーを写実に落とし込むという作業が行われているのだが、織田作の場合は、むしろ徹底してリアリズムに踏みとどまる、という、そこが、よい。だから、一人称語りで感傷の匂いが強いアドバルーンより徹底して突き放して乾いた語りの夫婦善哉の方が好き。

例のごとく解説(杉山平一)より抜書き。

「初版本のあとがきで作者は「この形式は私にとっては、唄であり、大阪的に言えば、サハリであった」(中略)作者にとっての歌であり、童話の境地と呼んだこの架空の物語が、一見してじめじめした卑俗リアリズムに見誤られて、「いやに下世話に通じた」といわれたのは、この作家の異常なまでの具体性に依ったのです。(中略)人間や行動は、全て職業によって説明され描かれます。はじめの借金取りは、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主であり、一銭天麩羅は牛蒡、蓮根、芋、三つ葉、蒟蒻、紅生姜、鰯、と、まことに詳しい説明です。(中略)外出するのでも「黒門市場への買出しに廻り道して」と書き、食べもの屋に入るのにも、いちいち店の場所と名前を並べて、出雲屋のまむしをたべるにも、新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向ひと、相合橋東詰の都合五軒のうちで、うまいのは・・・・・・と比べて見たり、戦記文学の服装描写とか、語り物の名称を織り込む何々づくし、のように、甚だ洒落てたのしんでいるのがわかります。作者が童話という所以なのです。(中略)この抽象を嫌った具体性は、また「大阪」の思想でもあったわけで、東京弁のモノローグはここでは成り立ちません。関西弁はダイヤローグであり、はっきりとした対象を得て語られるのです。」

 

町田康「夫婦茶碗・人間の屑」

以前「くっすん大黒」「告白」読んだ。今年7月ふと半日人の家で暇をしてたときそこにあった「屈辱ポンチ」読んだ。久しぶりに無為の日常(の時間)からの物語を読んだ気がして、新鮮だった。夫婦つながりできっと本人も意識して書いたのであろう本書を、善哉に続いて、読む。

この日記で度々引用したように「沸騰」という言葉を与えてくれた大恩師なのであるが、小説に関しては、ううむ、どうなのだろう。「くっすん大黒」はとても面白く読んだ。あと「屈辱ポンチ」もまあ面白かった。が、今回の二作は、(今までの他の作品よりも)笑えたけど、やや冗長というか、いまいちだったかも。

その文体であるところの語り口調、日常に対しての白けた目を持ちつつ必死こいて真面目にもがもがすることから生じる物語。もっと展開がある気がするのだよな。中庸というか、織田作のところで引いた言葉を借りるなら、まだ「卑俗リアリズム」にとどまってしまっている。卑属もリアリズムも立派な素材だが、それを沸騰させていくとするならば、もっと病的執拗なくらい具象の世界を網羅するか、逆に妄想に片足突っ込んでいくのならばもっともっとタガを外していけそうな気がするのだよな。その期待を、物語の展開が上回らない。やっぱりドストエフスキーの方がすごいのだよな、圧倒的に。同じ沸騰系でいうのなら。身も蓋もないが。では何ゆえ卑俗なリアリズムに留まるか、その辺を、作家の中でもっと徹底して煮詰めないといけない(何様じゃおいら)。

 

色川武大「狂人日記」

これもずっと読みたかった本。「麻雀放浪記」は読んだ。とても面白かった。色川作品としてはこれが初めて。「狂人日記」というタイトルの小説は、ゴーゴリ・魯迅が書いていて、そちらは読んだ。ゴーゴリのやつはかなり大好き。

なんだろう、薄味。淡々と、病に冒された主人公の状態・生活、幻視・幻聴・幻覚を記す。

これもある種、演劇的といえば演劇的な作品。会話のシーンが多く、その会話が微妙に嘘臭いというかある時代性=古さを感じさせる。その辺、淡白なタッチを変えないままに、改良の余地はあるような。何か琴線に触れそうで、でも触れきれず。もう何作か読んでみたい。これだけではどうも判断できずという感じ、だった。

 

書くほどのこともないという程度の本でも、こうして並べて感想を書いてみるといろいろと発見があるものだな。この素材だったらここが勘所で、到達点はここで、のようなイメージって、結構具体的にあるのだな。台本・物語書くとき、事前に、そういうものを文章として書いたほうがいいんだな、きっと。その日のためのトレーニングに確実になってる気はする。

本当はジュネ「泥棒日記」について書きたいのだ。あの本で自分が受けたものについて時間かかってもいいから言葉にしたい。書くには再読などもしなければならずまだもう少し先になりそう。それでもいい。

2014年

10月

21日

連歌は続くよどこまでも

岡山、丸亀、松山、高知を経て、徳島は脇町にやってきた。

四国はここが最後。次は熊本となる。旅もあとちょうど1ヶ月。うむ。

久しぶりに連歌がすすむ。旅連歌になった。

参加してくれてもいいのよ。

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

真下の空に 四月が笑う

山月に 棚引く雲や 虎の声

南洋赴く 汽船の煙

カロリンの ヤップから来た 女の子

家族を想い 北へ旅立つ

砂浜に 干された海鼠よ 白昼夢

丸木舟乗り ウォレス線跨ぐ

擦れ違う あの娘の名前は ゴンドワナ

気圏の上層 また逢いましょう

そう言って 東に消えた 小惑星

微かに聴こえた 白亜の断崖

島々の 数だけ地史を 足下に

空駆け抜ける 瀬戸の大橋

台風に テントで蟋蟀 雨宿り

廃材天国 開演間近

松山に 向かうトラック 11

すれ違う雲 すれ違う遍路

天高く 旅も肥ゆる 城の下

昼は秋の香 夜は冬の香

山越えて 山また山よ 土佐街道

幾つの細道 此処にも人住む

鶏が 志士の住居 知らせたり

日曜市の 雑踏の隙

蛇の道や 大歩危小歩危 蟹歩き

吉野渓流 四国大動脈

22 コメント

2014年

10月

15日

松山にいる

いかん、一公演地書き逃してしまった。

岡山→丸亀ときて、今は松山に来ている。

何も書かないよりも出来事だけでも記しておこう。

 

城の中の公園にいる。本番は明日。

松山城はすてきだよ。山の上にある。城郭もすごい広いまんま残ってる。

大きな町。路面電車が走ってる。

その路面電車に乗って先ほど道後温泉に行ってきた。城から15分くらい。

とても気持ちよかった。やっぱよかった。ゆっくりした。

 

四国に来るのも道後温泉もほぼ10年ぶり2回目。

トラックで丸亀から松山まで向かっていると結構お遍路さんとすれ違う。

四国。いいな。ここに来てあらためて旅をしてる感。

 

丸亀は廃材天国という素敵スポットで迫りくる台風を背にして公演した。

ぎりぎり大丈夫で終わったあとに急いで天幕までおろした。

 

岡山もかなりすてきな町だった。けっこう思いがけず。

通過するだけだった岡山、豊橋、静岡といった町が、表情を持って見えてくるこの旅。

ただ自分で訪れるだけでなく、そこで受け入れてくれる人がいて、その人を通して、その人の脈を通して、その町と出会える、その町を掴む。

 

読書、ジュネ「泥棒日記」読み終わった。

ついで金子光晴「どくろ杯」から漱石へ流れ込むつもりだったけど、泥棒日記があまりにディープだったので、さくさく読める物語が読みたくなり、馳星周「不夜城」を読み、いま川上弘美「蛇を踏む」読んでいる。

10月にする読書が好きなんだよなー。一年で一番好きな季節のひとつかも。いま。

 

泥棒日記については、きちんと、書き記したいのだけど、まだ無理かも。

なんなんだろうな、この感覚は。めちゃくちゃよかった。うまく言葉にできない。後に残る。

安吾とか、ドスト「地下室の手記」とか、似た志向のものはいくつか思い浮かぶけど、

でも、全然それらとも違うんだよな、身体的で、めちゃくちゃ個人的であるが故に、

誰よりも普遍的になっているというか、今まで誰も言葉にしなかったところに入り込み、

それに言葉を与えている、その疼きというか、皮膚の感覚が、なぜかとても伝わる。

書くって、こういうことなのだな。こんなことできるだろうか。

読めてよかった出会えてよかった、本。

 

大阪公演のときに、久しぶりに人から文章を書いてほしいという依頼を受けて、それについても取りくんでいる。

松山→高知間はあまり時間がないので、高知終わりでじっくり書き起こせるように書くことを整理している。

 

そんな感じ。

2014年

10月

06日

リアリズムへの翻訳

大阪公演が終わって岡山にいる。関西が終わった。そして本州はこれが最後。

旅は後半戦を着実に進んでいる。

 

明日から岡山公演。中二日の旅日程なので今日は欲張らずに書けることだけ書く日記。

 

大阪公演は、改めて、いろんな知り合いに見にきてもらえた。

神戸、京都、福井、我孫子、東京、そして大阪。

札幌や豊橋、名古屋でも、縁のある人に、沢山作品を見てもらえた。

有難いことだ。まだまだよき旅を続けていく。

でもひとつ大きな通過がまたあったのだなーという感慨。

 

広島、大阪と、かつてテント芝居をやっていた作家の方、それも女性の方と、それぞれじっくりお話をする機会が出来、とても身に染みる言葉をもらった。もう少し自分の中で消化してからここにも近いうちに書こうと思う。

 

読書は前々回の日記の宣言どおり、バルザック読み終わり、ジュネ「泥棒日記」を読んでいる。

旅の日程的なこともありこちらは中々進まんけど、非常に楽しく読んでいる。これはとてもいい。

思うことを文章にするにはもう少し時間がかかりそうなのでそれは読み終わってから。

 

バルザック、だいたい前々回に書いていた通りなのだけど、解説がまた面白かった、というか、教科書的なことを、教科書的に書いてくれていたので、自分のために転載。昭和18年10月の文章だそう。

 

リアリズムへの翻訳。これもまた、今後の自分にとっての、ひとつの大きな課題である。

翻訳をしなければならないわけではなく、そういう目線を常に持っていること。

リアリズムからの逸脱、飛躍を図るにしても、一度、具体を通るということは、とても必要なことだと思っている。

つまり「叙事」である、ということだ。

 

「これらの人物の喜怒哀楽は、空を掴むような情緒の表白によらず、必ず具体的な事実に翻訳されている」

 

そういう術、身につけたい。

定期的に、バルザック、読んでいくのが一番いい気がする。

 

◆◇◆◇◆◇◆

バルザック「ツールの司祭」解説 水野亮

(前略)それぞれ根差しの深いこれらの情熱が論理的な繋がりを持つ行為に順を追うて具体化されてゆくうちに、もとより個人的色彩は甚だあざやかながら、特定の階級なり身分なりを代表する典型人物が次第に構成されてゆく。僧職の世界は勿論のこと、貴族あり、市民階級あり、婢僕あり、更に法曹界の事情にも筆が及んでいるというわけで、ツール社会の縮図をここに見ることができるのである。

しかもこれらの人物の喜怒哀楽は、空を掴むような情緒の表白によらず、必ず具体的な事実に翻訳されている。ガマール嬢から理不尽な扱いを受けるピロトー師の悲しみは、脹脛のまわりの寸法が、五六分ほど減少を見せたことで現される。トルーベールは彼の秘密の一端を握っているガマール嬢、すなはちピロトー追出しの相棒をかねがね厄介者視していたが、いよいよ彼女の死を迎えることができたとき、このタルチェフまがいの偽善者は彼女の柩の上で灌水器をヤケに振り廻す性急な身振りによって、思わずもその内心の歓喜をさらけ出してしまう。(中略)

一個の情熱を取り扱うとき、彼はある人がいったように「こまかく目の結んだ布地を織り上げる」ような周到な準備作業によってこれを現実の具体的な行為に翻訳し、かかる情熱に煽られる各人物の不可避的な行為の組合せによって描かんとする事件に論理的な発展を辿らせる。一面また彼は、その情熱の根差しの深さを究めるが故に、たとえばガマール嬢の虚栄というような取るに足りない情熱でも、結果においては他の偉大な情熱と等しいほどの破壊力を振うという事実を証拠立てて見せる。かかる見地に立つとき、地方都市の僧侶階級の葛藤を描いた短編「ツールの司祭」は、題材と地味と規模の小にも拘らず、その写実味と社会的意義において、いかにもバルザックらしい小説ということができるであろう。(中略)

因みに本編は、フランスにおいて写実小説としても条件を完全に具えた最初の作品と称せられる。

◆◇◆◇◆◇◆

 

「ガマール嬢から理不尽な扱いを受けるピロトー師の悲しみは、脹脛のまわりの寸法が、五六分ほど減少を見せたことで現される」

 
こういうところが、ごまのはえっぽい。
今日はここまで。また岡山おわりで。次は四国だよ。

2014年

9月

29日

対象との距離 続

広島公演おわり。広島もすてきな出会いが多かった。

町はあまり見れなかった。またの機会。川が多いのがすてきだ。

 

対象との距離について。

そもそもどういう話だったっけ。

 

「楢山節考」の宇宙性にびっくりしたという話。とても地上的で土着的で重々しい執念溢れる物語かと思っていたら、とことん宇宙的な話でびっくりした、それって何なのだろうと思ったのだった。

 

考えるうちにどいのブログを思い出した。西瓜さんの舞踏が叙事的であるという話。踊り手が自分の身体とどのような距離を持っているかという話。舞踏は同一化方向で、コンテは距離とる方向。身体を物としてみたい、という話。

楢山節考も、読む前は対象同一化方向の物語かと思っていたけど、実際は、とても対象を突き離した、まるで異星人の理を観察しているような、叙事的な話だった、といえそう。

 

楢山節の話はそこで一旦おわりで、しかしそこから出発して、

演技をする上で、演劇をつくる上で、「対象との距離」の取り方は改めてよくよく考えたい問題系だと思うに至った。この問題に関連して、過去に自分の演劇観を支える両極の文章があったなーと思い出し、改めて引っ張り出した。「沸騰する力」と「白ける目」について。

 

というところまでだった。

今日はその続きを。 

 

沸騰する力の文章に出会った頃は、まだ、自分が舞台上でうまく沸騰できずにいた時期だった。しかし自分の欲望は何がしかの沸騰が起こらない舞台には意味がないと思っており、それを憧れをこめて確認したのだった。

 

その後、色々あり(ジョジョ劇の体験が多大)、沸騰はできるようになった。

演出としても、ある程度意識的に沸騰を起こせるようになった。

 

出来るようになった体感として思うのは、沸騰をするためには、対称との距離をかなり冷静に測る予備作業がいるということ。白けた目で一度、それを眺める必要がある、ということ。

長縄に入っていくためには、冷静に縄の回転を読まなければいけない(縄との距離を測らなければいけない)のに似ている。

 

沸騰とは、瞬間的に彼我の距離を無にすることだ。そのためには、その直前に、彼我の距離が測れてないといけない。そして、縄の中に飛び入り、沸騰=彼我の距離を無にした後(もちろんその過程で縄に引っかかってはいけないこれ大事)、再び縄の外に出たときに、また、冷静にそれを見返せねばならない。で、また縄の中へ入る。出る。入る。出る。そういう緩急を繰り返しながら、ひとつの曲を奏でていく。、ひとつの芝居を奏でていく。身体を奏でていく。

 

そうこうするうちに、沸騰を持続させる術も少しずつわかってくる。縄の中に入り(一度飛んだだけで抜けてしまわずに)飛び続ける。飛ぶ=沸騰する行為と、縄の回転を読む=距離を測る行為を、同時に或いはコンマのずれで併行してやる方法。

スキージャンプ選手の言葉に「飛ぶのは簡単なんだ。着地しようとするところに困難が発生する」という言葉がある。飛ぶ勇気と着地の技術。

 

実は、ここに、初めて、叙事的である必要が出てくるのだと思う。

身体を器として捉える。沸騰を背負う器としての身体。

身体自体を沸騰させてしまうと後が続かない。

そうではなく、沸騰する世界を、身体が背負う。

 

三上賀代さんによると、舞踏の世界では、それを「背後空間を立ち上げる」と言うらしい。

そのためには、腰が落ちていないといけない。臍下丹田が充実しないといけない。

肩の力が抜けていないといけない。物的・技術的な問題がはじめて生まれてくる。

 

物としての身体のフォルムを整えて、対象となる世界との距離を計る。

ぐいと引き寄せて、背後に乗せて、背負いきる。

身体は客席に向かって開かれた、ひとつの窓になる。

 

ベビー・ピーがいま立っている地点はここらへん。

 

沸騰はできる。が、まだ身体の沸騰、瞬間的なレベルに留まっている。

身体を器にして沸騰する世界を背負えるようにしていく。

ここはまだまだどの役者も中途の段階だ。

舞台の上で撃ち死ぬことはみんな出来るようになったけど、

死人として舞台に現れることは出来ていない。

身体の虚構性がまだ低い、ということかもしれない。

 

それにも良い悪いはある。

虚構領域をあげていこうとすると、概して、重々しく、堅苦しくなりがちだ。

暗黒舞踏の話、楢山節考を重々しと思っていたというあたり。

 

そこをどう回避しながら(回避する必要はあるのか?)、

見ごたえのある、凄みのある演技をつくっていくのか。

この辺一連を、どう集団の方法論として、共有して、どう次の演劇世界を展開していくのか。

 

今日はここまで。

 

時間あいたりしながらもしつこく続ける所存。

2014年

9月

26日

ディケンズとスタンダール、とバルザック

豊橋を終えて広島にやってきた。

広島は道が広い。路面電車の町。あと、とにかく川の町。

川ばかり。デルタ、デルタ。川はいい。しかし歩いていてなかなか町を掴みにくい。広い。

まだまだ先がありそう。明日から2日本番。終われば久しぶり最後の関西、大阪だ。

 

ディケンズ「二都物語」を、次いでスタンダール「パルムの僧院」を読んだ。

どちらも作家自体、初読。

前者は1859年刊行。フランス革命中のロンドンとパリを舞台にした物語。

後者は1839年刊行。ナポレオン戦争後のイタリア北部を舞台にした物語。

 

「二都物語」は、戯曲的な構成。近代を舞台にしたシェイクスピアといった趣き。五部構成で、主要なシーンはダイアローグで展開される。筋はやや荒唐無稽なところもある。ロンドンの筆致の躍動感に比べて、革命下のパリの描写のなんと観念的で抽象的なこと。

解説で中野好夫が好き勝手書いているの面白かった。

しかし歴史物語の書き方としてはある基本を押さえている感はあり、場所の飛ばし方、時間の飛ばし方、視点の切り替え方など、参考にはなった。「ディヴィッド・コパフィールド」も読んでみたい。

 

「パルムの僧院」は、ある一人の男の一生を追ったビルドゥングス・ロマン。しかし、なんとなく乾いた突き放し方を(特に序盤は)していて、滑稽話というか、道中記とうか、ロードムービーな趣き。お馬鹿なノリで、しかし大時代的な背景を旅しており、こちらも物語の組み立て方としてかなり勉強になった。というか、こういう物語構成の仕方、一見、演劇からは遠いように見えるが、遠い分だけ、引き寄せ甲斐があるというか、我らの作る芝居にはとても親和性があると思った。

限られた登場人物の間を行ったりきたりしながら、場所や時間が変転していく、事件が起こっていく。その中で、この話のように、登場人物自体の成長や風貌の変化を描き出せていけたら、いい。うむ。この話はかなり親和性が高い。自分の生きてる時代直近の30年史をある人物の生涯を通して描ききる、という結構もいい。こういう話つくりたい。「赤と黒」も読みたい。

 

次いで、バルザック「ツールの司祭・赤い宿」を読んでいる。バルザックは「ゴリオ爺さん」と「ゴプセック」を以前に読んだ。だいぶこの作家のリズムに慣れてきた感あり。これも戯曲的といえば戯曲的な物語。しかし上の二人の作家に比べ、目線が精緻というか微細。丁寧なデッサンの上に物語が描かれている印象。というか、まさに、キャラクターの素描(デッサン)、その人物がどういう種類の人間であるか、という説明に大量の文字数が割かれており、それが冗長といえば冗長。しかし、それ故、誰よりもその時代やその町、その集団、その人物の細部まで入っていき、細部の微細な変化から、その人物の人生の転機・転落・破滅を描き出していくことを達成している。

もう一つ、配置の妙というのも大きい。様々な階層の、様々な種類の人物を、実にうまく配置して、利害を対立させながら物語を動かす。物語自体はなんてことないシンプルな筋なのだが、周到に配置された各人物が丁寧に素描されながら動くので、読ませる。

バルザックがロシアに渡って、ゴーゴリ→ドストエフスキー、ゴーゴリ→チェーホフというラインが生まれたのだなーとか(ドスト→チェーホフではなさそう)。

やっぱり手塚治虫っぽいよなーとか。あとごまのはえっぽくもある。

こういう物語、作れるようになりたい。人間喜劇。しかしスタンダールほど即親和性はなく、まだまだこちらが修練・熟達していく必要がこちらはある。でも目指すべき一つの確実な基本形。これ目指すことはつねに念頭すべし。まだまだいろいろ読みたい。「ゴリオ爺さん」も読み返したい。以前読んだときは、一連のドストエフスキー作品の直後だったので、やや食い足りない印象が強かったが、今なら、もう少し楽しめそう。「谷間の百合」も持ってきてたはずだったけど上場に置いてきてしまったっぽい。

 

ゾラとかまで足を伸ばしたかったのだけど、ゾラも上場らしい。ない。

ので、一足飛びに、次はジュネ「泥棒日記」に参る。

そしてそこまで行ったら、一度、日本に飛んで漱石をいくつか読む予定。

四国に入る頃には、金子光晴「どくろ杯」を読みたい。

なんというか、構造だけでなく、言葉自体の呪力についても、

よくよく考えていく、みたいな流れ。

 

「対象との距離」についての稿もすすめるつもりで自分の中ではあれこれしてるのだけど、まとまって文章におこす時間がいまだ取れずにいる。けど、何も書かずにいるより、瞬発的でもそのときに書けるものを書いた方がいいなーと思い、今日は今日の読書日記。

 

◆◇◆◇

連歌、一句だけすすむ。一句だけって。ひとりでやってると、どうしてもこだわりに膠着してしまう部分があり、いまはまさにそういう展開。いいんだけどね。こだわりながらゆっくり進むのも。

集団でやってると、そういった自分内膠着も、人のセンスで軽やかにかわされたり変転するので、自分もまた仕切りなおしてその流れに乗っていこうとするので、それはそれでやはり楽しいのだなー。そんなことがわかるひとり牛歩連歌なう。

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

真下の空に 四月が笑う

山月に 棚引く雲や 虎の声

南洋赴く 汽船の煙

カロリンの ヤップから来た 女の子

家族を想い 北へ旅立つ

砂浜に 干された海鼠よ 白昼夢

丸木舟乗り ウォレス線跨ぐ

擦れ違う あの娘の名前は ゴンドワナ

気圏の上層 また逢いましょう

そう言って 東に消えた 小惑星

微かに聴こえた 白亜の断崖

2014年

9月

18日

連歌

豊橋にやってきた。連歌すこしだけすすむ。

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

真下の空に 四月が笑う

山月に 棚引く雲や 虎の声

南洋赴く 汽船の煙

カロリンの ヤップから来た 女の子

家族を想い 北へ旅立つ

砂浜に 干された海鼠よ 白昼夢

丸木舟乗り ウォレス線跨ぐ

擦れ違う あの娘の名前は ゴンドワナ

気圏の上層 また逢いましょう

そう言って 東に消えた 小惑星

2014年

9月

11日

今日はただの日記

東京2回目の休演日。

朝に昨夜の芝居の後片付けと反省会をした後はオフ。

井の頭線に乗って渋谷へ。

twitter上でひょんなことから盛り上がった人形劇の企画のために打ち合わせ・顔合わせ。

5年ぶりくらいの方と初めての方と。渋谷ジャンジャンのあったカフェミヤマにて。

色々興味深い話を沢山。これがいい感じに膨らむかはかなり自分次第かな。

形になるかどうかはまた別の話で、駆動し始めるかどうかは、ということ。

アイデアをわかりやすい形でまとめて提示するいい訓練になるかも。

もう少し先の話だけれどもがんばってみたい。いろいろ妄想していってみよう。

 

5、6年ぶりくらいに渋谷の町をぶらぶらする。

やっぱりはげしい街だよなー。広告すごい。

少しお金使い気味なので安い牛丼屋を探す。そういう場所はちゃんと覚えている。

この路地に確か松屋あったよなーと行くと確かにある。

でもその向かいにバーガーキングを発見し、本を読みたかったのでそちらに入る。

 

東京はいる前くらいにディケンズ「二都物語」が読了し、今はスタンダール「パルムの僧院」を読んでいる。いま上巻の半分過ぎたところくらい。おもしろい。読む前に予想してた雰囲気とだいぶ違う(こんなことばっかり言ってるな)。もっとロマン主義っぽいものを想像していたけど、主人公がどん臭い感じでかなり滑稽な趣き。と思っていたら成長してすこし賢くなってきていてはてさてどうなるといったいま。

ディケンズ「二都物語」もだいぶ突っ込みどころの多い小説だったけど、今、こういった近代小説を沢山読み漁りたい感じ。

 

帰って連歌の続きを二句だけつぐ。

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

真下の空に 四月が笑う

山月に 棚引く雲や 虎の声

南洋赴く 汽船の煙

カロリンの ヤップから来た 女の子

家族を想い 北へと旅立つ

砂浜に 干された海鼠よ 白昼夢

丸木舟乗り ウォレス線跨ぐ

 

流れ上、ウォレスのことについて調べていたら、とても面白い。

「マレー諸島」かなり読んでみたくなった。古本屋で見つけたら買っちゃうな。

飛び火して、大陸移動説のことなど色々読み漁る。こういうところが連歌おもしろいとこ。

結果、疲れた。頭がぼーっとしてる。

もっとやらなきゃなこと沢山あった気がするがそんな休演日。続き進まなくてすまぬ。

今日はもう夜じゃ。

東京公演ラスト3日間、がんばる。

2014年

9月

08日

沸騰と白ける目 -対象との距離2

東京にいる。今日は休演日。吉祥寺界隈をぶらぶらしながら久しぶりに思考を継続。

前回の日記、読み返すと、ちぐはぐ。自分のこと書いてるのか、小説のこと書いてるのか。自分でうまく整理できてない。稚拙。こういう作業を、怠ってきたのだなー。それがよくわかる。とにかく続けていく。続けながら整理もされてくるだろう。余計なものが落ちていくこともあるだろう。続けながら思考の錬度をあげていく。もやもやするものをとにかく言葉にしていく。

 

「対象との距離」の取り方について考える。

 

限りなく同一化をはかりそこに潜む情念をあぶり出していくのか。

一定の距離を取りながら観察し記述していくのか。

 

今日はあまり時間がないのでもう一度だけ引用を。

自分が芝居をする上で、とても大切な問題だと思っている、まったく別方向の、二つの文章。

ベビー・ピーのメンバーには度々配っていた。

「距離の問題」を考える上でとても重要な要素だと思っている。

長くて恐縮だけど全文掲載。

この二つの文章を踏まえて、次回、また改めて進んでいく所存です。

 

◆◇◆◇◆◇◆

「音楽とわたし」町田康
わたしは、わたしの音楽は基本的には語り物だと考えているのですね。つまり祭文語りから浪曲へ、あるいは説教節から浄瑠璃へと変化してきた、闇の中から立ちあらわれる胡乱な言説とでも申しますか、そのようなものの亜種亜流と考えておるのです。「じゃあ、君の文学とはいったいなんだね。或いは、演劇とはどう関わっておるのじゃね」とおっしゃる方も多いでしょう。それに対してわたしは「同じなのです」というしかありませんのです。わたし自身の中にその区別がないのですよ。(だからこそ語り物など、もって回った言い方をしているのだと思います)なんとなればわたしは、「文学」などと真面目に括弧つきで考えないのです。なにしろわたしは騙りものですから……、へっへっへっ。
 そいで例えば、ニュートラルな位置で受ける印象としては、文学は偉くなくて、かっこう良い、ロック音楽はかっこう悪くて偉い。わたしは少なくともそのような不毛なイメージの中には一秒たりともおりたくない、音楽は(それを音楽と呼べば音楽でありますが、わたしは歌手なので語り物といっておるのです。度々すみません)角度が大きいのですよ。文学といってすねるのも結構、演劇といって議論するのも結構、またロックなどと称して開き直るのも結構、でもわたしにとってはそれらをみな含めて音楽なのですよ。
 言葉の問題をやっておれば、言葉が様々な拍子で沸騰してきますし、舞台などで、たわけた仕草をしておれば体が沸騰しますしね。そうか、いま気付いた。わたしにとって音楽とは沸騰であったのだ。沸騰しておるのだが、ただ単に水が沸騰しておるのではないのだ。からだや、おもいや、ことばや、悪意や、その他さまざまなものが沸騰する力がわたしにとっての音楽であるのだ。ああ、すみませぬ。勝手に興奮しました。そいで、沸騰しますよね、それに対する理由や原因などは必要ないのですよ。ところが医学や科学の発達したこの現代、あるいは複雑に入り組んだ相のこの時代、理由がないと不安でならない。そいで音楽家も理由を探してしまう、求めてしまう。文学家も。やってる根本の沸騰力と関係ないところにいくのだね。ところが、わたしはそうでない。自分自身を人間の屑と断言しているのだから。あとは力の赴くままに沸騰するだけではないか。
 体験から申しますが、音楽は大きく二種類に分けることができ、瞬発力を問題とすれば歌うのが通常の沸騰のパターンです。持続力があるのは、書き物です。この両者をうまく統合するのが、語り物系(瞬間に脳内で書き、持続的にマイクの前で歌う)であります。これは二系統を内蔵した実にリーズナブルな稀有な装備であります。だからこそ、未分化な情念をギャグ混じりに歌うだけの、ふざけた根性、不真面目さ等を発揮できるのです。
 ということはどうなります。音楽も文学も、ただの分類の問題ではありませんか。なにがなにを支配するということではなく、ひとつの命や魂の中で沸騰しているものは同じものなんですよ。わたしはそのような沸騰、或いは振動による力や意味をできるだけ多くのひとと共有したいと思っています。共感したいと思っています。共鳴したいと思っています。だからわたしが歌い、演じ、書くことはみな同じなんです。みなわたしにとっては音楽なんです。

◆◇◆◇◆◇◆

「白ける力」 岩松了
人はどんな言葉を吐こうが、真実を語ることは出来ない。例えば、それらしいことを言う主人公、そのバカさ加減、ここに思いを至らしめるところに、演劇の、あるいはその主人公の救いはあると思うのだが、思いそこに至らず、自分の劇世界に酔い、「どうだ、いい台詞だろう」と自慢顔している劇作家の姿を想像することは、いかにもつらい。(中略) どんなに観客が笑おうと、泣こうと、その観客席の一番うしろの席に、いつも表情をかえずに舞台を観ている人間がいる。その人間を想像しつつ書くことが劇作家のつとめだと私は思っている。言うなれば白ける力これが劇を風化させないために必要だろう。 

 

******

あと、連歌が少しだけ進んだよ。

すげーのろのろだけどこれも自分の中の継続企画。

(季語を入れるの全部においてすっかり忘れてた。どうしよかな)

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

真下の空に 四月が笑う

山月に 棚引く雲や 虎の声

南洋赴く 汽船の煙

カロリンの ヤップから来た 女の子

家族を想い 北へと旅立つ

 

今日はおしまい。11日がまた休演日なのでそこで続きをー。

 

 

2014年

9月

01日

「楢山節考」2 -対象との距離

9月だ。静岡公演が終わったところである。今日は劇場バラシだけして楽屋は残す。明日の朝に楽屋をばらして東京へ出発。この通称「楽屋残し」と言われる日は、劇場のバラシは昼過ぎに終わり、そのあとわりとゆっくりできる。その土地を満喫したり、自分の作業をしたり、いろいろできる。好きな時間。

 

前々回の続き、楢山節考について考える。小説そのものというより、読む前に予想してた印象と実際に読んだときの体感の落差について、よくよく考えている。モノを書くことについて、だけではなく、演技をすること、演劇を作ることについても、重要な契機がそこには含まれている気がする。

 

「土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじいお話」という予想が裏切られた。そういう類の小説ではなかった。では「そういう類の小説」とは何だろうか。と、前回の終わりに書いた。

 

どうも、「対象との距離」というのがひとつキーワードなのではないかと思う。

 

ある文章を思い出した。その引用からはじめてみる。こちら劇団どくんご、構成・演出、どいの氏のブログである。このブログには演劇について考える本当に様々なヒントを貰った。どくんごと知り合った当初、遡ってほぼすべての記事を読んだ(と思う)。

 

今回の問題を考える中、演者は「対象との距離」をどのように持つか、ということが書かれた記事があったなーと思い出す。仙台の舞踏家であり、劇団どくんごとも大変懇意な、僕も今年初めてお会いできた、西瓜さんの踊りについての感想だった。

 

西瓜さんは暗黒舞踏系の流れを組んでいるんだろうけど,ある時突然奇跡のようにポストモダンが降臨する。《中略》ダンスにおける演者の感情というのはどういうふうに考えるべきなのかわたしにはいまひとつわからない。だが叙事,叙情という印象は持つ。身体と対話する時に演者は何を考えているのだろう。たとえば長内真理さん(青森。コンテンポラリー系の踊り手さん)のダンスは演者の感情と身体はいったん切り離されている印象を持てる。演者は距離をもって自分の身体を観察し感受している。だが,「暗黒舞踏」にはその距離を感じられることが少なく,何かを(対象に同一化する方向で)演じているかのように感じることが多い。「DISTANCE」のあの衣裳のもっている柔らかい印象,叙情,物語が,わたしが(演者も?)身体に直面することをさまたげている。《中略》手足のアクションだけをきっちりみたいのだが,それをスカートが邪魔をする。視界を遮るだけではなく,手足に女性性という意味づけをも与えてしまう(…もしくはそう思われてもしょうがない形象をつくりだす)。身体を身体として(「外科医のように」)即物的に眺めたい。

 

ここで書かれている「叙事・叙情」ということ。必ずしも自分の考える、もしくは作りたい見たいと望む演劇と同じかというそういうわけではなく、ここから出発して考えていかなければいけないことが多々ある。しかし、問題はかなり整理できる。

 

演者の感情と身体はいったん切り離されている」

「演者は距離をもって自分の身体を観察し感受している」

(=叙事)(そして、=ポストモダン)

「暗黒舞踏にはその距離を感じられることが少なく,何かを(対象に同一化する方向で)演じているかのように感じることが多い」

(=叙情)

 

つまり、何が言いたいのかというと、楢山節考を、私は、暗黒舞踏のような小説と予想していたのだけど、違った、ということだ(そして、私は、暗黒舞踏を、「土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじい」モノと、受け取っていた、ということだ)(どっちがいい悪いという話ではない)

とことん叙情的な小説かと思っていたら、違った、ということだ。

 

ではとことん叙事的な小説であったかというと、そういうわけではない。

情感には溢れている。しかし、澄みきっている。対象を突き放している。

「SF」と言ったのもそのあたりにある。この辺にさらに突きつめて考えていかなければいけないポイントがある。

 

巻末の解説にはこんな風に書いてある。

 

(前略)たしかに、深沢氏のつくり出すイメージの世界の強さについては定評がある。誰もが認めざるを得ない。たとえば中村光夫氏は、深沢氏のかくものは、夢のもつとりとめなさと「現実性が不気味に出ていて、凡庸な私小説作家の事実に頼った描写よりなまなましい印象がある」とのべているし、また大岡昇平氏は、深沢氏が奇妙になまなましい語り手であり「選ぶ言葉に喚起力がある」ことを認めている。なぜか。あらゆる素材が物として捉えられる存在把握、ないしは存在透視力、ないしはメタフィジックにもとづいているからである。

 周知のように深沢氏にとって世界とは、それ自身としては何の原因もない「自本自根」のものすなわち無であり、空間の拡がるかぎりの時間の及ぶところ、何時はじまって何時終わるとも知れない流転である。万象はその一波一浪にすぎない。あらゆる事象は「私とは何の関係もない景色」なのである。このような作家が、作中に登場させる人物たちをあたかも人形か将棋のコマのように扱ったとしても無理はないであろう。心理とか感情とかは一切みとめない。物として処理する。これは前述の『楢山節考』をみてもはっきりしているので、向う村の後家は、亭主が死んで三日もたたぬのにヤモメになったばかりの辰平と結婚しなければならない。いや、しなければならないのではなく、するのがあたりまえなので、当人たちにとっても、村人達にとっても、後家とヤモメが一緒になるのは<自然>だし、またみごもった赤子を「捨ちゃる」相談を夫婦でするのも<自然>なのだ。このように深沢氏は、近代の人間中心的な思想とはまったく対蹠的な地点に立っている。これは深沢氏が徹底したアンチ・ヒューマニストであることを示している。

 

さすが文芸評論家という文章。いろいろ勉強になる。しかし、この解説が、楢山節考をきちんと分析しつくせているかというと、やや留保がある。まだもう少しそれだけで収まりきらない部分がある気がする。それはまた考えていくとして、しかしこの解説、この日記の文脈にはびっくりするほどはまっている。どいのブログに書いてあることにもかなり通じる。そして、私が書きたい物語、作りたい演劇のヒントも、かなり示されている。

 

楢山節考に関しては、もうだいたい書くべきことは書いた。この日記は、作品を分析しつくすことが目的ではなく、それを読んだ刺激をテコにして、自分が書きたい物語の形を、自分が作りたい演劇の形を、きっちりと言語化することが目的である。対象との距離の取り方をしっかり考えること、距離を測る作業を日々実践していくことが目的だ。そういう作業を、いま、徹底してやる必要を感じている。

 

「身体(対象)と対話する時に演者(作家)は何を考えているのだろう」

 

対象との距離をどのように取るのかという問題。

限りなく同一化をはかりそこに潜む情念をあぶり出していくのか。

一定の距離を取りながら観察し記述していくのか。

 

問題をほんの少し整理できたところで今日はここまで。

中々少しずつしか進まない。考え続ける。少しずつ書く。

次の公演地へ参る。

2014年

8月

26日

連歌のように

郡山に来ている。

前回の続きを書きたいけど、まとまった時間が取れないので、別のことを書く。

連歌が好きなのである。鑑賞ではなく、詠むのが。

以前SNSで何度かそういう遊びがあり、思いついた人が勝手にコメント欄に永遠書き込んでいくルールでやってた。

リレー小説という遊びをやったこともあった。

リレーラップというのも、そういえば少しだけやった。

私の発想力が一番活きる瞬間ってこういう形なのではないかと思ったりする。

定型の強制力。順番の強制力。ゆえの飛躍。

自分にないボキャブラリーが出てきたり思いもよらない題材に行き当たったりする。

色々なものととても新鮮に出会う。鍛えられる感覚。

それ自身独立した表現としてどうかは正直別で、とにかく、広がる、鍛えられる。

何か、こういう取り組みが、芝居作りにしても、文章トレーニングとしても、出来ていったりしないかなー、もう少し汎用させていく方法がないかしらん、と思ってたりする。

ひとりでも始めてみたらいいのかも。どうだか。

そう思って、このあいだ、始めてみた。まだ序章だけど。

一の句が一番難しい。ので、私が小学校のときに作った俳句にしてみた。

そして適当にやってみた。やり始めると勝手に自分内ルールなどもできていく。

それに乗るのも自由。破るのも自由。自分の作った句にびっくりしながら次の句を考える。

それ以上先は考えない。やりながら考える。それがよい。どうかね。

飽きるまでたまに続けてみる。参加者いたらお名乗りを。

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

(続く)

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2014年

8月

21日

深沢七郎「楢山節考」

 これは、途方もなく美しい物語だった。

 姥捨伝説にまつわる話という前知識はあった。映画の写真も見たことがあった。ドリフがコントにしていた記憶もある。土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじいお話、と読む前は勝手に想像していた。全然違った。これはSFだと思った。「山と山とが連なっていて、どこまでも山ばかりである」と小説は始まる。ル=グィンの小説を読むような、遠い星の話、そんな感覚に誘われる。知らない何処かの知らない条理やことわりを見る。藤子・Fの「ミノタウルスの皿」などにも通じる感覚。今年のどくんご「OUF!」の冒頭、五月さんが語る、「自分た双子星の人間は或る年齢に達するともう片方の星に移住しなければならない、なぜなんだろう、どうしてなんだろう、そういう決まりなの」という台詞。そういう決まりなの。というおはなし。

 とにかく細かい状況設置とかプロット運びが相当に巧みなのがひとつにはある。そうせざるを得ない状況というのを詰め将棋のように着々と作っていく。譜を進めていく。「イワン・デニソーヴィチの一日」を読んだときも感心したけど、悲劇を書くとき主人公の性格は喜劇的/ポジティブにする、という常道がある。反転させて、喜劇を書くときは主人公の性格は悲劇的/ネガティブにする、ともいえる。すべてそうでは勿論ないが、テクニックとしてこれは使える。

 語りの視線が、母おりんから息子辰平に、あまり意識させないうちに移動している。これもうまい。使える。よく考えたら「みんなボブ」のノリオとボブが出会うシーンはそうなっている(ほとんどの人がわからない例で恐縮)。最初ノリオ目線のシーンだが途中からボブ→マサカズ目線になる。意識的になればこれでまとめあげられる作りって結構ありそう。

 まあしかし、そういうことでは説明しきれない、美しさがこの小説にはある。

 

 少し別の角度から考えてみる。「土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじいお話」という予想が裏切られたと書いた。そういう類の小説ではなかったのだ。では「そういう類の小説」とは何だろうか。ここら辺にひとつの謎の答えはある気がする。これはこれでかなり長くなるので、また別の回に書く。

 

 最後に、文庫本巻末の日沼倫太郎の解説及びそこで紹介されている正宗白鳥の「楢山節考」の評がなかなかイカしていたのそれを載せて今日はおしまい。

 

 第一回『中央公論新人賞』の当選作として、一九五六年十一月号の同誌に発表された『楢山節考』は、当時選者だった伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫という当代の有力作家に少なからぬショックをあたるという稀有な事例をもって世に送り出された小説であるが、この作品を批評した文章のなかで最も感動的だったのは、正宗白鳥氏の次の文章だと私は思う。

 「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である。(中略)私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。」

 正宗白鳥氏といえば点の辛い批評家として生前知られていた。その正宗氏が『楢山節考』を読んだことを、「このとしのうちの記憶すべき一事件」といい、さらにまた「人生永遠の書」とまでいいきったことは、余程感銘が深かったからだろう(後略)