読書日記

ジュネ「泥棒日記」のあと、金子光晴に行くつもりだったが、ふと寄り道したくなって馳星周「不夜城」を読み、ついで川上弘美「蛇を踏む・消える」、織田作之助「夫婦善哉・アドバルーン」、町田康「夫婦茶碗・人間の屑」、色川武大「狂人日記」を読んだ。そしてやっと今日から金子光晴「どくろ杯」に突入した。忘れないうちに感想雑記。

 

馳星周「不夜城」

箸休めとして非常にそのとき丁度よい小説だった。情報量が多く、ある特定の一箇所、新宿をぐるぐるしながら、台湾・中国の裏社会の様子を立ち上げていく。サスペンスに富み、歴史劇としての要素もある。主要なシーンが電話による会話で展開される、というのも、意外と使えるのかもしれん。

高村薫「李歐」、宮崎学「血族」などと同じ、中国・アジアの裏社会もの。歴史・ドキュメントとして面白い。「青い紙魚」も片足突っ込んでいた世界。しかし物語としては、どれも、まだまだ掘れる余地がある気がする。どんな物語展開かしらん。背景とか立場の微妙な違い、力関係、駆け引きなどを、丁寧に織り込んでいかないといけないから、演劇向きではないのだけど、何かやり方がないものか。三好十郎のようなテキスト構成だったら或いは可能か。「斬られの仙太」アジア近代史版。ううむ。取り組んでみたい。

 

川上弘美「蛇を踏む・消える」

これは結構びっくりした。初めての川上弘美。こういう物語書く人だと全く思ってなかった。

これ、おもしろいなー。こういう演劇、ありそうでないよな。でもできるよな。ベビー・ピー、自分の書くテキストと、重なるわけではないが、親和性はある。こういう方向に持っていくことは出来るよな。そうか、こんな方法があったか、という感じ。勿論ものにするのは大変だろが。松田の持ってる雰囲気や身体感、本人の書くテキストからも、注意深くノイズを削いでいけば、こういう不可思議が取り出せるのではないかしら。

マジックリアリズム、といっていいのかもしれない。淡々とした不思議な間のリアリズムに、ふいとマジカルな要素が闖入してくる。マジカルとリアリズムが同居したまま物語が進んでいく。淡々としている前半の方が好きで、後半の怒涛は、もう少し、別の展開があるような、でも、こうなってしまうところに、この人の作家性があるような気がして、また別の作品も追ってみたいと思った。こういうテンポのまま、マルケスが書くような、巨大な歴史・神話に接続する、でもあくまで語りはあっけらかん淡々と間の抜けてる、物語が、できんかな、できそな。語りが、ロマン主義に流れていかない、情緒に倒れない、という作法がどこかにある。

 

織田作之助「夫婦善哉・アドバルーン」

初めての織田作。夫婦善哉、かなりよかった。語り調子、微細で具体な生活描写、大阪・・・。バルザックで書いた「リアリズムへの翻訳」ということ。バルザックの場合は確かに、あるドラマツルギーを写実に落とし込むという作業が行われているのだが、織田作の場合は、むしろ徹底してリアリズムに踏みとどまる、という、そこが、よい。だから、一人称語りで感傷の匂いが強いアドバルーンより徹底して突き放して乾いた語りの夫婦善哉の方が好き。

例のごとく解説(杉山平一)より抜書き。

「初版本のあとがきで作者は「この形式は私にとっては、唄であり、大阪的に言えば、サハリであった」(中略)作者にとっての歌であり、童話の境地と呼んだこの架空の物語が、一見してじめじめした卑俗リアリズムに見誤られて、「いやに下世話に通じた」といわれたのは、この作家の異常なまでの具体性に依ったのです。(中略)人間や行動は、全て職業によって説明され描かれます。はじめの借金取りは、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主であり、一銭天麩羅は牛蒡、蓮根、芋、三つ葉、蒟蒻、紅生姜、鰯、と、まことに詳しい説明です。(中略)外出するのでも「黒門市場への買出しに廻り道して」と書き、食べもの屋に入るのにも、いちいち店の場所と名前を並べて、出雲屋のまむしをたべるにも、新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向ひと、相合橋東詰の都合五軒のうちで、うまいのは・・・・・・と比べて見たり、戦記文学の服装描写とか、語り物の名称を織り込む何々づくし、のように、甚だ洒落てたのしんでいるのがわかります。作者が童話という所以なのです。(中略)この抽象を嫌った具体性は、また「大阪」の思想でもあったわけで、東京弁のモノローグはここでは成り立ちません。関西弁はダイヤローグであり、はっきりとした対象を得て語られるのです。」

 

町田康「夫婦茶碗・人間の屑」

以前「くっすん大黒」「告白」読んだ。今年7月ふと半日人の家で暇をしてたときそこにあった「屈辱ポンチ」読んだ。久しぶりに無為の日常(の時間)からの物語を読んだ気がして、新鮮だった。夫婦つながりできっと本人も意識して書いたのであろう本書を、善哉に続いて、読む。

この日記で度々引用したように「沸騰」という言葉を与えてくれた大恩師なのであるが、小説に関しては、ううむ、どうなのだろう。「くっすん大黒」はとても面白く読んだ。あと「屈辱ポンチ」もまあ面白かった。が、今回の二作は、(今までの他の作品よりも)笑えたけど、やや冗長というか、いまいちだったかも。

その文体であるところの語り口調、日常に対しての白けた目を持ちつつ必死こいて真面目にもがもがすることから生じる物語。もっと展開がある気がするのだよな。中庸というか、織田作のところで引いた言葉を借りるなら、まだ「卑俗リアリズム」にとどまってしまっている。卑属もリアリズムも立派な素材だが、それを沸騰させていくとするならば、もっと病的執拗なくらい具象の世界を網羅するか、逆に妄想に片足突っ込んでいくのならばもっともっとタガを外していけそうな気がするのだよな。その期待を、物語の展開が上回らない。やっぱりドストエフスキーの方がすごいのだよな、圧倒的に。同じ沸騰系でいうのなら。身も蓋もないが。では何ゆえ卑俗なリアリズムに留まるか、その辺を、作家の中でもっと徹底して煮詰めないといけない(何様じゃおいら)。

 

色川武大「狂人日記」

これもずっと読みたかった本。「麻雀放浪記」は読んだ。とても面白かった。色川作品としてはこれが初めて。「狂人日記」というタイトルの小説は、ゴーゴリ・魯迅が書いていて、そちらは読んだ。ゴーゴリのやつはかなり大好き。

なんだろう、薄味。淡々と、病に冒された主人公の状態・生活、幻視・幻聴・幻覚を記す。

これもある種、演劇的といえば演劇的な作品。会話のシーンが多く、その会話が微妙に嘘臭いというかある時代性=古さを感じさせる。その辺、淡白なタッチを変えないままに、改良の余地はあるような。何か琴線に触れそうで、でも触れきれず。もう何作か読んでみたい。これだけではどうも判断できずという感じ、だった。

 

書くほどのこともないという程度の本でも、こうして並べて感想を書いてみるといろいろと発見があるものだな。この素材だったらここが勘所で、到達点はここで、のようなイメージって、結構具体的にあるのだな。台本・物語書くとき、事前に、そういうものを文章として書いたほうがいいんだな、きっと。その日のためのトレーニングに確実になってる気はする。

本当はジュネ「泥棒日記」について書きたいのだ。あの本で自分が受けたものについて時間かかってもいいから言葉にしたい。書くには再読などもしなければならずまだもう少し先になりそう。それでもいい。