対象との距離 続

広島公演おわり。広島もすてきな出会いが多かった。

町はあまり見れなかった。またの機会。川が多いのがすてきだ。

 

対象との距離について。

そもそもどういう話だったっけ。

 

「楢山節考」の宇宙性にびっくりしたという話。とても地上的で土着的で重々しい執念溢れる物語かと思っていたら、とことん宇宙的な話でびっくりした、それって何なのだろうと思ったのだった。

 

考えるうちにどいのブログを思い出した。西瓜さんの舞踏が叙事的であるという話。踊り手が自分の身体とどのような距離を持っているかという話。舞踏は同一化方向で、コンテは距離とる方向。身体を物としてみたい、という話。

楢山節考も、読む前は対象同一化方向の物語かと思っていたけど、実際は、とても対象を突き離した、まるで異星人の理を観察しているような、叙事的な話だった、といえそう。

 

楢山節の話はそこで一旦おわりで、しかしそこから出発して、

演技をする上で、演劇をつくる上で、「対象との距離」の取り方は改めてよくよく考えたい問題系だと思うに至った。この問題に関連して、過去に自分の演劇観を支える両極の文章があったなーと思い出し、改めて引っ張り出した。「沸騰する力」と「白ける目」について。

 

というところまでだった。

今日はその続きを。 

 

沸騰する力の文章に出会った頃は、まだ、自分が舞台上でうまく沸騰できずにいた時期だった。しかし自分の欲望は何がしかの沸騰が起こらない舞台には意味がないと思っており、それを憧れをこめて確認したのだった。

 

その後、色々あり(ジョジョ劇の体験が多大)、沸騰はできるようになった。

演出としても、ある程度意識的に沸騰を起こせるようになった。

 

出来るようになった体感として思うのは、沸騰をするためには、対称との距離をかなり冷静に測る予備作業がいるということ。白けた目で一度、それを眺める必要がある、ということ。

長縄に入っていくためには、冷静に縄の回転を読まなければいけない(縄との距離を測らなければいけない)のに似ている。

 

沸騰とは、瞬間的に彼我の距離を無にすることだ。そのためには、その直前に、彼我の距離が測れてないといけない。そして、縄の中に飛び入り、沸騰=彼我の距離を無にした後(もちろんその過程で縄に引っかかってはいけないこれ大事)、再び縄の外に出たときに、また、冷静にそれを見返せねばならない。で、また縄の中へ入る。出る。入る。出る。そういう緩急を繰り返しながら、ひとつの曲を奏でていく。、ひとつの芝居を奏でていく。身体を奏でていく。

 

そうこうするうちに、沸騰を持続させる術も少しずつわかってくる。縄の中に入り(一度飛んだだけで抜けてしまわずに)飛び続ける。飛ぶ=沸騰する行為と、縄の回転を読む=距離を測る行為を、同時に或いはコンマのずれで併行してやる方法。

スキージャンプ選手の言葉に「飛ぶのは簡単なんだ。着地しようとするところに困難が発生する」という言葉がある。飛ぶ勇気と着地の技術。

 

実は、ここに、初めて、叙事的である必要が出てくるのだと思う。

身体を器として捉える。沸騰を背負う器としての身体。

身体自体を沸騰させてしまうと後が続かない。

そうではなく、沸騰する世界を、身体が背負う。

 

三上賀代さんによると、舞踏の世界では、それを「背後空間を立ち上げる」と言うらしい。

そのためには、腰が落ちていないといけない。臍下丹田が充実しないといけない。

肩の力が抜けていないといけない。物的・技術的な問題がはじめて生まれてくる。

 

物としての身体のフォルムを整えて、対象となる世界との距離を計る。

ぐいと引き寄せて、背後に乗せて、背負いきる。

身体は客席に向かって開かれた、ひとつの窓になる。

 

ベビー・ピーがいま立っている地点はここらへん。

 

沸騰はできる。が、まだ身体の沸騰、瞬間的なレベルに留まっている。

身体を器にして沸騰する世界を背負えるようにしていく。

ここはまだまだどの役者も中途の段階だ。

舞台の上で撃ち死ぬことはみんな出来るようになったけど、

死人として舞台に現れることは出来ていない。

身体の虚構性がまだ低い、ということかもしれない。

 

それにも良い悪いはある。

虚構領域をあげていこうとすると、概して、重々しく、堅苦しくなりがちだ。

暗黒舞踏の話、楢山節考を重々しと思っていたというあたり。

 

そこをどう回避しながら(回避する必要はあるのか?)、

見ごたえのある、凄みのある演技をつくっていくのか。

この辺一連を、どう集団の方法論として、共有して、どう次の演劇世界を展開していくのか。

 

今日はここまで。

 

時間あいたりしながらもしつこく続ける所存。