沸騰と白ける目 -対象との距離2

東京にいる。今日は休演日。吉祥寺界隈をぶらぶらしながら久しぶりに思考を継続。

前回の日記、読み返すと、ちぐはぐ。自分のこと書いてるのか、小説のこと書いてるのか。自分でうまく整理できてない。稚拙。こういう作業を、怠ってきたのだなー。それがよくわかる。とにかく続けていく。続けながら整理もされてくるだろう。余計なものが落ちていくこともあるだろう。続けながら思考の錬度をあげていく。もやもやするものをとにかく言葉にしていく。

 

「対象との距離」の取り方について考える。

 

限りなく同一化をはかりそこに潜む情念をあぶり出していくのか。

一定の距離を取りながら観察し記述していくのか。

 

今日はあまり時間がないのでもう一度だけ引用を。

自分が芝居をする上で、とても大切な問題だと思っている、まったく別方向の、二つの文章。

ベビー・ピーのメンバーには度々配っていた。

「距離の問題」を考える上でとても重要な要素だと思っている。

長くて恐縮だけど全文掲載。

この二つの文章を踏まえて、次回、また改めて進んでいく所存です。

 

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「音楽とわたし」町田康
わたしは、わたしの音楽は基本的には語り物だと考えているのですね。つまり祭文語りから浪曲へ、あるいは説教節から浄瑠璃へと変化してきた、闇の中から立ちあらわれる胡乱な言説とでも申しますか、そのようなものの亜種亜流と考えておるのです。「じゃあ、君の文学とはいったいなんだね。或いは、演劇とはどう関わっておるのじゃね」とおっしゃる方も多いでしょう。それに対してわたしは「同じなのです」というしかありませんのです。わたし自身の中にその区別がないのですよ。(だからこそ語り物など、もって回った言い方をしているのだと思います)なんとなればわたしは、「文学」などと真面目に括弧つきで考えないのです。なにしろわたしは騙りものですから……、へっへっへっ。
 そいで例えば、ニュートラルな位置で受ける印象としては、文学は偉くなくて、かっこう良い、ロック音楽はかっこう悪くて偉い。わたしは少なくともそのような不毛なイメージの中には一秒たりともおりたくない、音楽は(それを音楽と呼べば音楽でありますが、わたしは歌手なので語り物といっておるのです。度々すみません)角度が大きいのですよ。文学といってすねるのも結構、演劇といって議論するのも結構、またロックなどと称して開き直るのも結構、でもわたしにとってはそれらをみな含めて音楽なのですよ。
 言葉の問題をやっておれば、言葉が様々な拍子で沸騰してきますし、舞台などで、たわけた仕草をしておれば体が沸騰しますしね。そうか、いま気付いた。わたしにとって音楽とは沸騰であったのだ。沸騰しておるのだが、ただ単に水が沸騰しておるのではないのだ。からだや、おもいや、ことばや、悪意や、その他さまざまなものが沸騰する力がわたしにとっての音楽であるのだ。ああ、すみませぬ。勝手に興奮しました。そいで、沸騰しますよね、それに対する理由や原因などは必要ないのですよ。ところが医学や科学の発達したこの現代、あるいは複雑に入り組んだ相のこの時代、理由がないと不安でならない。そいで音楽家も理由を探してしまう、求めてしまう。文学家も。やってる根本の沸騰力と関係ないところにいくのだね。ところが、わたしはそうでない。自分自身を人間の屑と断言しているのだから。あとは力の赴くままに沸騰するだけではないか。
 体験から申しますが、音楽は大きく二種類に分けることができ、瞬発力を問題とすれば歌うのが通常の沸騰のパターンです。持続力があるのは、書き物です。この両者をうまく統合するのが、語り物系(瞬間に脳内で書き、持続的にマイクの前で歌う)であります。これは二系統を内蔵した実にリーズナブルな稀有な装備であります。だからこそ、未分化な情念をギャグ混じりに歌うだけの、ふざけた根性、不真面目さ等を発揮できるのです。
 ということはどうなります。音楽も文学も、ただの分類の問題ではありませんか。なにがなにを支配するということではなく、ひとつの命や魂の中で沸騰しているものは同じものなんですよ。わたしはそのような沸騰、或いは振動による力や意味をできるだけ多くのひとと共有したいと思っています。共感したいと思っています。共鳴したいと思っています。だからわたしが歌い、演じ、書くことはみな同じなんです。みなわたしにとっては音楽なんです。

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「白ける力」 岩松了
人はどんな言葉を吐こうが、真実を語ることは出来ない。例えば、それらしいことを言う主人公、そのバカさ加減、ここに思いを至らしめるところに、演劇の、あるいはその主人公の救いはあると思うのだが、思いそこに至らず、自分の劇世界に酔い、「どうだ、いい台詞だろう」と自慢顔している劇作家の姿を想像することは、いかにもつらい。(中略) どんなに観客が笑おうと、泣こうと、その観客席の一番うしろの席に、いつも表情をかえずに舞台を観ている人間がいる。その人間を想像しつつ書くことが劇作家のつとめだと私は思っている。言うなれば白ける力これが劇を風化させないために必要だろう。 

 

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あと、連歌が少しだけ進んだよ。

すげーのろのろだけどこれも自分の中の継続企画。

(季語を入れるの全部においてすっかり忘れてた。どうしよかな)

 

吹きぬける 風に波打つ 碧の田

蒸気かき分け 自転車駆ける

金色の 木々の煌き 双子山

雲くっきりと 鯨燻らす

計画は ケミカル模様 蹴り上げる

コカ・コーラの瓶 転ぶ虚無僧

五月雨を 逆さにみたら さしすせそ

真下の空に 四月が笑う

山月に 棚引く雲や 虎の声

南洋赴く 汽船の煙

カロリンの ヤップから来た 女の子

家族を想い 北へと旅立つ

 

今日はおしまい。11日がまた休演日なのでそこで続きをー。