深沢七郎「楢山節考」

 これは、途方もなく美しい物語だった。

 姥捨伝説にまつわる話という前知識はあった。映画の写真も見たことがあった。ドリフがコントにしていた記憶もある。土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじいお話、と読む前は勝手に想像していた。全然違った。これはSFだと思った。「山と山とが連なっていて、どこまでも山ばかりである」と小説は始まる。ル=グィンの小説を読むような、遠い星の話、そんな感覚に誘われる。知らない何処かの知らない条理やことわりを見る。藤子・Fの「ミノタウルスの皿」などにも通じる感覚。今年のどくんご「OUF!」の冒頭、五月さんが語る、「自分た双子星の人間は或る年齢に達するともう片方の星に移住しなければならない、なぜなんだろう、どうしてなんだろう、そういう決まりなの」という台詞。そういう決まりなの。というおはなし。

 とにかく細かい状況設置とかプロット運びが相当に巧みなのがひとつにはある。そうせざるを得ない状況というのを詰め将棋のように着々と作っていく。譜を進めていく。「イワン・デニソーヴィチの一日」を読んだときも感心したけど、悲劇を書くとき主人公の性格は喜劇的/ポジティブにする、という常道がある。反転させて、喜劇を書くときは主人公の性格は悲劇的/ネガティブにする、ともいえる。すべてそうでは勿論ないが、テクニックとしてこれは使える。

 語りの視線が、母おりんから息子辰平に、あまり意識させないうちに移動している。これもうまい。使える。よく考えたら「みんなボブ」のノリオとボブが出会うシーンはそうなっている(ほとんどの人がわからない例で恐縮)。最初ノリオ目線のシーンだが途中からボブ→マサカズ目線になる。意識的になればこれでまとめあげられる作りって結構ありそう。

 まあしかし、そういうことでは説明しきれない、美しさがこの小説にはある。

 

 少し別の角度から考えてみる。「土着性の強い、情念たぎる、それゆえ重々しく、ややもすれば辛気臭い、しかしだからこそ迫力凄まじいお話」という予想が裏切られたと書いた。そういう類の小説ではなかったのだ。では「そういう類の小説」とは何だろうか。ここら辺にひとつの謎の答えはある気がする。これはこれでかなり長くなるので、また別の回に書く。

 

 最後に、文庫本巻末の日沼倫太郎の解説及びそこで紹介されている正宗白鳥の「楢山節考」の評がなかなかイカしていたのそれを載せて今日はおしまい。

 

 第一回『中央公論新人賞』の当選作として、一九五六年十一月号の同誌に発表された『楢山節考』は、当時選者だった伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫という当代の有力作家に少なからぬショックをあたるという稀有な事例をもって世に送り出された小説であるが、この作品を批評した文章のなかで最も感動的だったのは、正宗白鳥氏の次の文章だと私は思う。

 「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である。(中略)私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。」

 正宗白鳥氏といえば点の辛い批評家として生前知られていた。その正宗氏が『楢山節考』を読んだことを、「このとしのうちの記憶すべき一事件」といい、さらにまた「人生永遠の書」とまでいいきったことは、余程感銘が深かったからだろう(後略)